曹操軍は劉備が狙っていた江陵(こうりょう)を制圧した。こうして長江(ちょうこう)の要所をおさえると、さらに長江を下り、陸口(りくこう)を目指した。陸口は水陸の交通の要(かなめ)だった。
敗走した劉備は夏口(かこう)でとりあえず落ち着き、戦略の建て直しをはかった。
単独で曹操軍と戦うのは、もはや不可能だった。劉備は孫権と同盟を結ぶことを決め、諸葛孔明が使者として孫権のもとに出向き交渉、同盟が成立した。
曹操軍は、制圧した荊州(けいしゅう)の兵も編入され、その数、二十万に達していた。
対する孫権・劉備連合軍は五万でしかないが、もともと孫権の呉(ご)は水軍の強さでここまできたような国だった。それに対して北での戦いに明け暮れていた曹操は騎馬部隊での戦いが得意で、水軍での本格的な戦いには慣れていなかった。
戦いは長期化しており、兵たちは疲労していた。
そんな背景のもと、両軍は、長江の南岸、赤壁でついに対峙した。
曹操軍は長江に船を並べ、それを岸に連結させ、水上の大要塞を築いていた。船が揺れて船酔いする兵が多かったので、つなげることで揺れを少なくしていた。これが、致命的な失敗につながる。さらに、疫病が流行りだし、南の孫権軍の兵たちには免疫があったが、北からの曹操軍の兵士たちにはそれがなく、病に倒れる兵が多かった。だが、もはや、引くに引けない。
孫権軍の参謀、周瑜は、曹操軍の船が密集し、さらに繋がっていることから、焼き討ちにすれば、一瞬にして壊滅できると考えた。だが、火を放つにはかなり近づかなければならなかった。
そのころ、孫権軍の老将、黄蓋(こうがい)が密かに曹操と通じていた。「折りをみて投降したい」というのだ。最初は疑った曹操だが、これを信じることにした。
だが、これが周瑜の謀略だった。
十二月だったが、その日は快晴で日中は暑いくらいだった。夜になると、東南の激しい風が吹き出す。周瑜は、今夜だ、と決断した。黄蓋は十艘の軍船に薪と油を積み、長江を進み、曹操軍に近づいた。そして、全員が「投降する」と叫んだ。
曹操軍は、かねてからそのときがくるのを知っていたので、何の警戒もせず、黄蓋の船を進ませた。「今だ」と黄蓋が点火を命じると、船は炎上、そのまま曹操軍の真っ只中に進んだ。火達磨となった船が水面の要塞を襲う。それぞれの船は繋がれていたため、自由に動くことができない。次々と燃えるだけであった。
兵たちは次々と焼け死ぬか、河に飛び込み、溺れ死ぬかだった。
その火は岸にあった曹操軍の陣営にまで延焼。曹操は誇っていた水面の要塞が燃え上がるのに呆然とする間もなく、ひたすら逃げた。
その逃避行は四日に及び、沼にはまり命を落としそうになるなど、散々な目にあい、まさに命からがら、江陵に辿りついたのであった。
こうして、曹操の河南制圧の野望は潰れたのである。
この赤壁の戦いにおいて、諸葛孔明が東南の風を吹かせるなどの大活躍をしたかのように「演義」では描かれているが、史実としては、孔明はこの戦いには、まったくかかわっていない。
この戦いは、
陶晴賢軍の船団の規模は500艘、兵の数は2万とも3万、毛利軍の兵数は4千から5千程度と伊予の村上武吉・村上通康ら伊予水軍約300艘で戦った「厳島の戦い」を思い出しました。