豊臣秀吉による九州征伐の緒戦。


当時、薩摩の島津氏が九州を席巻していたが、これを防戦していた豊後の大友宗麟が秀吉に助けを求めた。


秀吉はこれを機に九州征伐へと乗り出し、1586(天正14)年、四国勢の仙石秀久、長宗我部元親、十河存保などで編成した軍勢を九州に遣わす。


戸次川を挟んで島津勢と対峙した秀吉勢は、仙石秀久が戸次川を強行突破しようとして敵の伏兵に叩かれ大混乱。


元親の嫡男や存保は討ち死にし、島津勢に大敗を喫した。




秀吉勢が九州平定の過程における島津との戦いで唯一負けたのが戸次川の合戦だ。

その敗因は仙石秀久の強引な作戦にあったといわれている。


長宗我部父子や存保らは、島津の伏兵を用心し、慎重論を唱えたが、功を焦った秀久は強行突破して渡河すべきだと主張して譲らなかった。


城を囲んでいた島津勢が兵を引いたのを見た秀久は、止める元親を振り切って渡り始める。

これを見てやむなく四国勢は全軍で渡河した。


しかし、この秀久の強引な突破が四国勢の崩壊を招くこととなる。


四国勢の渡河を待ち構えていた島津勢の伏兵が襲いかかったのだ。


この攻撃に、川を背にして逃げ場を失った四国勢は混乱し、各隊が分断され、信親や存保は壮絶な討ち死にを遂げた。


ところが強行突破を唱えた秀久は、最初の突撃で島津勢に破れると、真っ先に逃走したという。


こうして九州征伐の序盤戦は島津勢の勝利に終わった。


秀吉は無理な主張を押し通して敗戦させた秀久を許さず、領地を没収している。







marcy_coolpixのブログ-戸次川の合戦