高校をかろうじて卒業できたぼくは、多くの浪人生同様、お茶の水の予備校に通いだした。
 大金と引き換えに与えられたテキストは積み上げると高さ二十センチほどにもなったものの、高校と違い出席を調べるわけでもないので安心して屋上で寝ころんでいられた。屋上から真下をみると、ビルの谷間の歩道を一列になって行進してくる予備校生たちの面持ちはどれも沈鬱で、まるで葬列を眺めているようだった。自分もまた連中のうちの一人なのだと思うと、直感的に誤った道を歩いているような気がしてならなかった。
 予備校の授業はまだ陽も高い三時過ぎには終わってしまう。あいた時間、ぼくは同世代の仲間たちが集う向ヶ丘の喫茶店『ホワイト』で小遣い稼ぎにアルバイトをしていた。そしてこの年の春、店の募集の貼り紙をみてウエイトレスとして応募してきたのがチハルだった。
 チハルは高校時代を群馬の女子高で過ごし、音大受験のため上京して千駄木の高台にあるマンションでひとり暮らしをしていた。ひとり暮らしといっても、マンションは予備校に紹介された女子寮だったから、それで彼女も親に出郷を許されたのだし、音大受験という同じ目的をもった同世代の娘が両隣に暮らしているので淋しいことはなかったらしい。ただ、これはぼくの憶測で、たんに表面上そうわざと淋しさを隠してふるまっていたのかもしれない。
 履歴書を持って店にやってきたチハルはマスタ-に歳を訊かれると、
「いくつにみえる?」
 逆に探るような眼をして下から見返していた。一人でクツクツ笑いつつ、会話が終始ため口なので、マスタ-もこの娘はすこしおつむが弱いのではないか、そう思ったらしい。
 ぼくはカウンタ-に座って聞いていたが、なぜか彼女の襟足ばかりに眼がいった。おかっぱとまではいかないものの両耳があらわに出て、後ろ髪がざっくりⅤ字にカットしてある。青みの浮いた首筋にぽつぽつ剃り残しのあとがあった。女子高のときからの指定の髪型なのだろうが、同世代でそうした髪型の女の子をみたのは中学生以来ぼくはひさびさだった。
 マスタ-はめったに面接などしないから、どう対処したらいいのか戸惑っている様子だった。
「こっちは真面目に訊いてるんだからね……それで、住所はどの辺ですか、近いんですか?」
「どこだと思う?」
「う―ん」
 腕組みをして唸った後で、「オ-イだれか代わってくれえ」、言いながらマスタ-がスツ-ルを立つと、まわりで息をころして聞いていた若い常連客たちの間からどっと笑声が湧き起こった。まだ面接すら済まないうちから、チハルはもうぼくらの仲間になっていた。
 十九歳とはなんてもろくてあやうい年頃なんだろう。町の喫茶店とはいえ、そこでは金銭の授受が行われるわけだから社会の一部であるのに変わりはない。つい最近まで学校の塀のなかで暮らしていた未成年が連日、見知らぬ大人を相手に報酬をもらうようになる。店にくる、一人ひとりの大人がそれぞれ膨大な領土をもつ魔王にみえた。大人というのはこちらの出方ひとつ誤ると、思わぬいかずちを喰らうものだ。
 ぼくとチハルはまるで軒先に吊るされたガラス玉に泳ぐ金魚のようなものだった。水があり餌も与えられ、そこからは全方位の世界が見渡されるのだが自分の居場所が分からないのだ。

   ぼくたちはよく鷗外図書館の閲覧室で待ち合わせをした。そして夜十時にチハルのバイトが終わるのを待って、ぼくは彼女を寮まで送っていった。
 千駄木町は本郷台地の東端にあたり、図書館のある薮下通りから道灌山へかけてが根津谷をのぞむ崖上の縁辺にあたっていた。団子坂を道灌山の方へ折れ、またひとつ路地を折れてしばらく行くと公園がある。園内の遊歩道はその急崖の傾斜に植わった木々の合間を縫って下り、池の縁をめぐって根津谷へと抜けられるようになっていた。
 崖上から下りていく途中、チハルは傍らのクスノキを見上げ、
「りっぱねえ……この木」
 そうため息をついて階段の中ほどにたたずんだ。下草を分けて木肌に抱きつきながら、「あたしが三人手をつないでも、とどかない」そう言って愉快そうに笑った。
「あたしの住んでいた町にも、近所にこんな大きな木があって、小さい頃からずっとその木の下を歩いて育ってきたから、こういう大きな木を見ると親しみがわくの……。あなたにも、そんな思い出の木ってある?」
「さあ。どうかな」
「みてこの枝振り。まるで柔道家やお相撲さんの腕っぷしのよう。こんなにたくましくって、たったひとりでお空を支えてるみたい」
 ぼくは自分がみるみる小さくなってゆくような心細さを覚えた。
「こ―んなにいっぱい葉っぱをつけて……。あなたも、この木のようなりっぱな人になってね」
 そんな言葉がぼくには羽虫の羽音ほどにしか聞こえない。
 チハルのめざす音大受験は、学科より実技の方を重視する。学校で学ぶ時間より与えられた課題の曲を暗譜する、一人でピアノに向かう時間の方が大切だった。その貴重な時間をさいて週三日だけバイトをするのも、「すこしでも親の負担を軽くするため」なのだそうで、落第ぎりぎりの成績でかろうじて高校を卒業し、ゆき場のないまま惰性で予備校に籍を置いて、ゲーム代欲しさにバイトをしているぼくとは人生の指針からして彼女の方がよほど立派でしっかりしていた。
 それからぼくは道行きをすこし急いだように思う。
 コンクリ-トの小橋があった。暗いなか意外な水量が音を立てて流れ下り、奥は何段かの滝になっていた。白い流れは組んだ大岩の上を飛沫をあげて下っていたが、はるか下方の池にそそぐ辺りでは、両岸の岩に水勢をそがれ水紋をゆるく引いていた。
「ここ。公園って感じじゃないみたい」
 ぼくたちは池まで下りずに、途中から崖上に出るようにつけられてある枝道に入っていった。階段を上りきるとそこが猫の額ほどの平坦地になっていた。見晴らし台にベンチがひとつ置いてある。木立を抜けてふいに現れた虚空の大きさに、
「わあっ……」
 とチハルは声を挙げた。
 園内のとぼしい外灯が池の中央にある弁財天の祠を赤く照らし出していた。つられて眺めいったとき、「将来は云々……」の話から解放されてぼくはほっと安堵した。ふたり眼下景に気をとられたこのひとときこそ、二つの心が肩を並べた初めではなかったろうか。
 生いしげる葉群のふところ深いやさしい闇と、夜空の群青と、足下のあやうく張りつめた夜陰のなかで、ぼくたちはたった二言か三言、確かめてしまうと他になにも語ることがなくなってしまった。
 公園の周辺は、広壮な家々の建ちならぶ閑静な住宅街だった。
 不忍通りの車道をゆく疾駆音が、夜空の遠いところにかすかにしていた。滝音はツツジの植え込みにさえぎられ、茂みの奥にくぐもって聞こえ、互いの息つ‘‘かいばかりが耳につく。ぼくは何やら雰囲気に流されてしまうことが怖くなって、いま二人が置かれている状況について無粋な考えをめぐらせていた。
(浪人なら、机にしがみついているのが当たり前のこの時期に……。真面目に勉強に取り組んでいる、日本中あまたの受験生からみたらぼくたちはどれほどの愚か者に映るだろう……)
 そのとき、左肩にずん、といきなり衝撃がのしかかってきた。ぼくは彼女の半身を受け止めながら、びっくりして先方を顧みた。チハルは身体をもたせかけ、先ほどと同じ意味合いの内容を今にも泣きだしそうな声音でつぶやくのだった。柔らかな上腕と乳房に押されながら、ぼくは頭の裏側がしびれ体中の血が奔騰し、どうしたらいいのか分からなかった。ただし静かな息つ‘‘かいを繰り返している、小鳥のような温もりがいとおしく、なるたけ男らしく見せようと意味もなく身構えているばかりだった。
 十九歳の彼女の重みが、同世代の自分には到底勝っているとしか思えなかった。自分に持ちこたえきれる代物じゃない、そんな危惧が漠然とぼくを捉えていた。ベンチで一つ影にまとまりながらぼくは再び先行きの分からない、心細る想いにおそわれていった。

   チハルは東京の音楽専門学校に通ううち、日毎に女らしさを増していった。
 ファッションひとつ取ってみても、より美しく自分を引き立てる大人の服を選ぶようになった。それまでは首を絞め付けるようにきっちり止めていたブラウスのボタンがいつの日からか外されるようになり、ゆたかな白い胸元に細い金のネックレスを覗かせるようになった。なんだか唇が濡れているようにみえる。なんだか眼が大きくなったように感じる。しばらく逢えない日が続いたと思うと、肩まで伸ばした髪がベージュに染まって耳元からふんわりカールしてある。そうした容姿の洗練が、言葉つ‘‘かいやバイト先でのちょっとした所作にも現れていた。
   そんなチハルを目の当たりにして、ぼくは自分の立場なぞ考えられなくなった。満ちてくる潮のような感情に、ぼくのほぼ全体は抗わず、自身を開け放して少しのためらいも感じなかった。じっさい彼女の想いに委ねてみると、恋は決して日常を脅かすようなものでもなかった。傾く側に素直に傾いた、自分の心情をぼくは嬉しく思った。
 けれどもチハルにもらった自信と潜勢力は、やがて僕の内であらぬ方角にむけて転がりだした。机上には参考書のかわり人生論の類が置かれるようになり、『ホワイト』でひとりジャズに聴き入る時間が多くなった。木田や年上の浪人生たちになぜ大学へ行くのかといった議論をふっかけ、常連の大人たちに交じりビールのコップを片手に談論風発してはばからない。
 なぜ大学に行くかより、今はどうしたら大学に入れるかだろう、年長者はそう言ってぼくを諭した。年の瀬も押し詰まるにつれ、けれども煮え切れずにいたぼくの内部でもようやく意思が固まってきた。つまりが幼稚園に入園して以来連綿として乗り継いできたこのレールから、ぼくは断然飛び降りることにした。そうした気持ちを木田は逃避だといった。両親にはむろん却下された。
 話の合う人合わない人、考えのずれから起こる気まずい沈黙、互いに譲らぬ平行線のままいよいよ会話が煮詰まると、彼らは一様にうんざりした顔をして言うのだった。
「親に食わしてもらっている分際で――」