誰に送っていたかは分からないが、誰かが演説をしていた。
スピーカーから自らの主張を大音声で響かせていた。
顔は見えなかった。
タイムズスクエア前は混雑し、ニューヨーク市警が警備にあたっていた。
“イランを信じるな”
ボクの目で見る事が出来たのは沢山の反イランを掲げたユダヤ人とイスラエル国旗を掲げたユダヤ人だ。
ユダヤ人は見ればすぐにわかる。
ユダヤ人の男性は頭にキッパと呼ばれる帽子をつけているからだ。
さらに、超正統派のユダヤ人は黒い帽子を被り黒いスーツを着用し、そしてモミアゲが長い。
ボクがニューヨークに来て思った事は本当にいろんな人種がいるという事。
アメリカの公用語は決して英語なんかではない。
移民の国だからこそ沢山の言語が溢れている。
ボクがこっちに来て髪を切った顧客の中にも第一言語は違う言葉で第二言語で英語を話している人が多いという点。
今日髪切った子供は間違いなくアメリカ人ではない白人だ。
お母さんと話している会話を聞いていると、多分ロシア人なんだと思う(言ってる意味は分からないが顔つきと話し方でなんとなく分かってきた。)
ボクが住んでいる場所はブロンクスから近いという事だけあって、黒人が多い。
いつも通る家の前で黒人の青年が上半身裸で(全身タトゥー)で重低音を響かせたhip-hopを聞きながらホットドッグを食べている光景を見るのも珍しくはない。
最初はビビったが慣れるものだ。
いつも行くコインランドリーはほとんどがヒスパニック(中南米系)であることは確かだ。
ランドリーの中にあるテレビはスペイン語のテレビ番組が放送されている。
“海外で働いてみたいが英語が話せないから行かない”
という声を今まで沢山聞いてきたが、そんなものは言い訳だ。
英語が話せないという都合の良い言い訳で自分を誤魔化しているのだ。
マルタ共和国、イギリス、そしてアメリカに住んでみて分かったのは言葉の壁そのものよりも文化の壁の方が遥かに大きい。
言葉はあくまでコミュニケーションの一つのツールとしてあるのであり、英語が話せるからみんなと仲良くなれるというのは別の話である。
日本語が話せる日本人同士でもイザコザがあったり人間関係の構築が上手くいかなかったりする。
つまり言葉そのものが大事なのではない。
大事なのは共感する力なんだ。
相手と共通する趣味があったり、相手のことを褒めてあげたり、一緒に飯を食うことで仲良くなれるのだ。
人間関係の構築に必要なものは気持ちの共有なんだよ、きっとね。
冒頭のようなデモをする人たちも同じ考えを持っているから一致団結して自分たちの主張を繰り返し述べている。
小さな子供も政治に参加していた。
ボクは歩き続けた。
すると、欧州系の観光客から道を聞かれた。
タイムズスクエアまでの場所が分からないらしい。
なので、超簡単な英語の短文で教えてあげた。
屈託のない笑みで『Thank you!』と言われた。
でも、なぜボクに道を聞いたのだろう?
これはまさにボクがNew Yorkerに見えたからだと思う。
はい、この文章読んだあなたは
『それは絶対にない!顔面アジアやん!』
と脳内で突っ込んだでしょ!
そう思ったあなたは歯茎にタトゥーを入れてください。
黄昏、日本編