翠邑日誌

 Suiyu’s Diary

榎本翠邑

 

元書法展会員、元太玄会会員、元瑞雲会評議員同人、

元全国書道師範連盟会員、

元東京書道教育会会員、英国ではブルネル大学ギャラリー、アルバートホール等

での展示、英国BBCテレビ「天皇」等があり、また「俳画」・「水墨」・

「書」・「花」等の書の担当での出版物があります。 

東京生まれ。

 

1月 百人一首

 84 藤原清輔朝臣 

 

 

 

 

楽しいお正月をお迎えのことと思います。

旧年中は大変お世話になりました

本年も変わらぬおつきあいをどうぞよろしくお願いします

 

 

©榎本翠邑 書と画

 

 

百人一首 84番 藤原清輔朝臣

 

長らへばまたこの頃や忍ばれむ

憂しと見し世ぞ今は恋しき

 

ながらへばまたこのごろや

しのばれむ

うしとみしよぞいまはこひしき

 

 

これから命を長らえば辛いに

違いないとは言うものの 

生きながらえてみれば
辛く苦しいと思っていた

昔の日々が懐かしいなんて
   またなんという不思議なものじゃ。

 

©榎本翠邑 書

 

 

生きてさえいればいいことも

あることよ、ということです。

 

三条内大臣

(さんじょうのないだいじん)が

まだ中将だった時に、

使者に持たせて送った歌と

言われています。

この歌は、生き長らえたら、

やはり今この時が

思い出されるのだろうか。

 

つらいと思った世の中も、今では

なつかしく思われるのだから。


この歌は、15歳の歳の差

しかなかった兄のような父

との争いの心境を表

しているようです。

 

定家は清輔を理解した

上でこの歌を選んだの

かもしれません。

 

幸運にも父が亡くなって

からは二条院に珍重され、

辛抱した時代を振り返る

余裕ある日が巡ってきたその

時の心境を留めたのでしょう。

 
この歌の原出典は中国

の詩人の白楽天の詩集

からだと言われています。

 

「白氏文集」(はくしもんじゅう)

「老色日上面歓情日去心今

既不如昔後当不如今」

 

©Japansumiecentre

 

 

ろうしょくひに おもてに のぼり、

くわんじゃうひに 心を去る。

いますでに むかしに しかず

のちまさに いま しかざる べし。

 

日が経つにつれて、外見が老けて

 愉快といふものは 殆んど

無くなってしまった。

 

 今でさえ若い時の様ではない

のだから、この上年を取ったら

 今ほどにもいかないだろう。

 

せめて今の中に楽しんで

おくがよい。

 今は未だ左程の衰へたといふ

風でもない何事でも大抵は

やつてのけられる。

 

 

藤原清輔朝臣 

 

藤原清輔朝臣

(ふじわらのきよすけあそん)

(1104~1177)

は、平安時代末期の公家

歌人で藤原北家末茂流、

左京大夫、藤原顕輔

(ふじわら の あきすけ)

の次男で、父の顕輔が

15歳の時に授かった子供、

しかも次男でした。

 

©榎本翠邑 書

 

若き父からやっかまれ、

官位は正四位下、

太皇太后宮大進にとどまり

ましたが、顕輔の死後、

運気が戻ってきたようです。

 

初めの名前は隆長と言い

ました。六条を号し、

六条藤家3代目でした。

 

1156年従四位下、のち

太皇太后宮大進に任ぜられ、

近衛天皇の皇后、

次いで二条天皇の后となり

「二代の后」と呼ばれた

藤原多子

(ふじわら の まさるこ)

に仕えました。

 

共に仕えた同僚で平家の 

武将の平経盛

(たいら の つねもり)とは

弟、重家藤原 重家

(ふじわら の しげいえ)

と共に親密な交流を

持ちました。

 

 

©榎本翠邑 書

 

母は高階能遠の娘、妻は

不詳、子供は尋顕と公寛、

養子1女と藤原清季 は

藤原家基の子を養子に

しています。

 

崇徳天皇、近衛天皇、

後白河天皇、二条天皇、

六条天皇、高倉天皇に仕え、

73歳くらいで亡くなりました。

 

六条藤家系図 

 

六条藤家系図を見ると、

人麻呂影供の継承者は

始祖の藤原顕季に始まり、

79顕輔、84清輔で確立、

清輔の弟の勅撰歌人重家

から御子左家の俊成、 

定家、為家と続きましたが、

南北朝期に六条藤家は

途絶えてしまいます。

 

 

歌人としての藤原清輔

 

©Japansumiecentre

 

 

清輔は多くの著作を残し

和歌の本質、作法、である

六条藤家歌学を確立しただけ

でなく、平安時代の歌学の

大成者で、歌人として認められ

てからは多くの歌合の判者であり

歌壇のリーダーとなりました。

 

公的な場で歌を詠むには

古い歌集崇め「万葉集」を

繰り返し読んだと言われます。

 

1144年、崇徳上皇より父の

顕輔が勅撰集「詞花和歌集」

の撰集を命ぜられ清輔もその

補助をしましたが、父顕輔と

対立したため、清輔の意見は

採用されませんでした。

 

崇徳帝の久安百首に参列して、

崇徳院の近くにいた 

歌人でした。

 

 

©榎本翠邑 書

 

二代后藤原多子に仕えてた

こともあり、二条天皇に

重用されて「続詞花和歌集」

を撰しましたが、奏覧直前

に天皇が崩御したため

勅撰和歌集は編集され

ませんでした。

 

1155年、父から人麻呂影供

(ひとまろえいぐ)を

伝授されて、六条藤家を

継ぐこととなりました。

 

千載集以下勅撰集に

89首か96首の千人万首

があり、私家集は

「清輔朝臣集」があります。

 

父顕輔の死際に人麻呂

影供を継承して六条藤家

の当主となり歌学を

確立させました。


実作よりも歌学の方が得意

分野で「袋草子」「奥義抄」

「和歌字抄」を著しています。

 

歌合では歌人藤原俊成

(ふじわら の としなり・しゅんぜい)

ともども判者を務めましたが、

歌の判定でしばしば意見が 

食い違いお互いに対抗者

でありました。

 

 

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

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ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

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翠邑書 Haiga Illustrated HAIKU Poems by Yukki Yaura

 

SHO: Japanese Calligraphy   ISBN    0-9538692-3-7

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ありがとうございました。

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