翠邑日誌

 Suiyu’s Diary

  榎本翠邑

元書法展会員、元太玄会会員、元瑞雲会評議員同人、

元全国書道師範連盟会員、

元東京書道教育会会員、英国ではブルネル大学ギャラリー、アルバートホール等

での展示、英国BBCテレビ「天皇」等があり、また「俳画」・「水墨」・

「書」・「花」等の書の担当での出版物があります。 

東京生まれ。

 

 

12月 百人一首 83 

皇太后宮大夫俊成

 

 

83番 皇太后宮大夫俊成

 

 (こうたいごうぐうだいぶ

しゅんぜい・としなり)

 

  

世の中よ道こそなけれ

思ひ入る

  山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

 

よのなかよ みちこそなけれ

 おもいいるやまのおくにも

 しかぞなくなる

 

©榎本翠邑 書

 

こんな憂鬱な世の中から逃げて

きたのに、鹿も悲しげに

鳴いている、

ああー、生きてる限り

苦しみから逃れる道は

ないのかなあ。 

 

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この世の中、逃れる道は

無いんだなぁ。

こんな山奥に逃れてきたって

いうのに、ここでも鹿が

私とおんなじ気持ちで

鳴いてるじゃないか。

 

©japansumieentre

 

 歌の背景

 

 

 「述懐百首の歌よみ侍りける時、

鹿の歌とて詠める」

 

 とあります。

 

 山に入ってさえ、この世の

無常の嘆きは継続すると、

 鳴く鹿の聲に重ねて

詠んだものです。

 

哀しく鳴く鹿の声を聞くと、

つらいことから逃れようと、

人のいない山奥に入った

ものの、その山奥では鹿が

悲し気に鳴いています。

 

生きている限り、どこへ

行っても苦しみから逃れ

られないのだという

絶望感を詠んだものです。

 

時代は平安末期、源平の

合戦が待ち構えていました。

 

この歌は27歳で遠江守

(静岡県の大井川以西)に

就いていたときの歌です。

 

人生が思うようにならない

ことを嘆いています。

 

©榎本翠邑 書

 

 

俊成は官位に恵まれず

地方官を歴任します。

この歌は27歳で遠江守

(静岡県の大井川以西)に

就いていたときの歌で人生が

思うようにならないことを

嘆いています。

 

俊成がこの歌を作った27歳

のころは、藤原氏にとっては

困難な時代でした。

当時は、親友で弟と思って

接していた西行も、この折に

出家してしまいました。

 

俊成はそんな胸中、悩んでも

どこへ行こうとも悩みは

つきないのだ。

この歌は個人的な感情的な

歌ではなく、役人の立場から、

書かれた心情であると

思われます。

 

崇徳院退位の前年、 

俊成27歳の時の作でした。

こう推察すれば、思うように

いかない世の中の非道を

嘆いたものだったのです。

 

彼は出家はせず、歌人として

生きていく覚悟をしたのでした。

 

©榎本翠邑 書

 

 歌人としての

太后宮大夫俊成・藤原俊成

 

 

1187年には、後白河上皇の

命により「千載集」を

撰集しました。

 

この歌は、「千載集」

雜歌に載っています。

 

また多くの歌会の判者を

務めたほか、後白河天皇の

第三皇女の式子内親王

のために「古来風体抄」と

いう歌を論じた書も

残しています。

 

式子内親王は俊成から

和歌を学びました。

 

式子内親王(89番)

 

玉の緒よたえなば

絶えねながらへば

忍ぶることの弱りもぞする

 

俊成の歌の師匠は、

藤原基俊(75番)でした。

 

彼も藤原北家の出身で

ありながら、官位に恵まれ

なかった人物でした。 

©japansumieentre

 

俊成は10歳で父親と

死別していることから、

若い頃は不安定な世の

無常や哀歌を詠って

いましたが、その後、

崇徳院や九条兼実の

歌壇の中に立ち彼の

才能は開花され、

高く評価されました。

 

俊成は歌ばかりでなく、

能楽や茶道に於いても

評価されています。

 

藤原俊成と西行法師

 

 歌人としては、当時は

西行法師と俊成は評価を

二分していました。

 

西行法師は鳥羽院に

仕えていた武士として

よく知られている人物で、

俗名を佐藤義清 

(さとうのりきよ / 西行法師)

と言いました。

 

西行法師を弟のように

思っていましたが彼が

出家したと聞いたときに

つくったものだと

伝えられています。

 

藤原北家の家紋

©japansumieentre

 

 作者である藤原俊成は、

西行と並んで後鳥羽上皇

に賞賛されたように、

平安時代末を代表する

歌人で、新古今風和歌の基礎

を築いたといえる歌人です。

 

皇太后宮大夫俊成・藤原俊成

 

皇太后宮大夫俊成

(こうたいごうぐうの

だいぶとしなり)

(1114~1204年)とは、

藤原俊成

(しゅんぜい/としなり)

のことで、関白藤原道長の

玄孫(やしゃご)で藤原北家

の出身にあたり、公家の

家柄としては一番高い家柄

でしたが官位に恵まれず

地方官を歴任しています。

 

父親は権中納言、

藤原俊忠で、俊成は10歳で

父親と死別しています。

 

子供は「小倉百人一首」の

撰者である藤原定家 

(97番)でした。

 

皇太后宮大夫

(こうたいごうぐうだいぶ)

とは、皇太后宮の諸事を

司る皇太后宮職長官のこと。

 

©榎本翠邑 書

 

「皇太后宮大夫」という

名前は、天皇のご生母の

御殿の事務をとる役所の

長官を務めたために

こう呼ばれました。

 

後に正三位に

任ぜられています。

 

俊成が主に仕えたのは、

後白河后 忻子、

(公能女、俊成の姪、藤原忻子)

六十三歳で出家し釈阿と

名乗り、後白河の院宣に

よって千載集の撰者を

勤めたのは七十四歳

の時でした。

 

役職は従五位下

18歳で加賀守、

23歳で遠江守、

35歳で丹後守 

38歳で左京権大夫、

41歳で従四位上、

(続)左京権大夫  

正四位下左京権大夫、

47歳で左京大夫。

 

©japansumieentre

 

62歳で出家し、後鳥羽院

(90番)からは俊成が90歳の

誕生祝の宴をいただき、

平穏な晩年を送りました。

 

翌年、91歳の長寿で

亡くなりました。

 

 

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

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ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

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ありがとうございました。

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