翠邑日

Suiyu’s Diary

榎本翠邑

元書法展会員、元太玄会会員、元瑞雲会評議員同人、

元全国書道師範連盟会員、

元東京書道教育会会員、英国ではブルネル大学ギャラリー、アルバートホール等

での展示、英国BBCテレビ「天皇」等があり、また「俳画」・「水墨」・

「書」・「花」等の書の担当での出版物があります。 

東京生まれ。

 

百人一首81後徳大寺左大臣

 

10月81番

後徳大寺左大臣

百人一首

81 

後徳大寺左大臣

ごとくだいじのさだいじん)

 

ほととぎす 鳴きつる方を

 眺むれば

ただ有明(ありあけ)の

 月ぞ残れる

 

ほととぎす なきつるかたを

 ながむれば 

ただありあけの 

つきぞのこれる

 

©翠邑 書

 

夜明け時、あっ、ホトトギスだ!

ホトトギスが鳴いた方を眺めたら、

見たばっかりのホトトギスの姿は

無くって、そこには、

ただ明け方の月が残って

いるばかりだったよ

 

あれ、ホトトギスが鳴いた!

鳴いた方角を眺めると、

ホトトギスはどこだ!

あ、いない!

そこにはただ有明の

月だけが残ってたよ。

 

というこんなに簡単な何のことも

ないような情景の譜を

なぜ作ったのでしょうか。

 

これにはホトトギスの性格、

習性、「いわれ」が関係しています。


ホトトギスは3月から5月にかけて

日本に渡ってくるので

「夏を告げる鳥」として

知られています。 

 

©japansumiecentre

 

そのため「時鳥」などと

呼ばれて愛されていました。

 

平安時代の雅を愛する

貴族たちにとって、

夏のはじまりに飛来する

ホトトギスは、季節の訪れを

象徴する鳥として、

ウグイスのようにとても

詩的な魅力的なものに

思えたようです。

 

和歌において「ほととぎす」

は重要な歌語でした。

 

当時の貴族たちは、山の鳥の中で

朝一番に鳴くといわれるホトトギス

の声を聴くために、ほととぎすを

夜明かして一晩中待ち、

その初音を聴くという

風流な風潮がありました。

 

実定の譜はこのようなホトトギス

の習性を知って読むと作者が

詠んだ単純な譜の意味を

理解することができます。 

 

ここで知っておきたいことは、

ホトトギスは動作が素早く、

移動が速いので、今ここにいた筈

なのにもういない、ということ

が起こるのです。

 

今、鳴いたばっかりのホトトギス

の姿が見えず、ただ明け方の

月が淡く空に残って

いるばかりだった。

 

©翠邑 書

 

徳大寺 実定

 

(とくだいじ さねさだ)

後徳大寺左大臣

ごとくだいじのさだいじん

(1139~1191)

 

徳大寺実定は左大臣は

エリート中のエリートでした。

 

本名は藤原実定

(ふじわらのさねただ)。

 

平安時代後期から鎌倉時代初期

にかけての平氏が栄えた時代

に公卿、歌人で右大臣でした。

 

君主は近衛天皇、後白河天皇、

二条天皇、六条天皇、高倉天皇、

安徳天皇、後鳥羽天皇に

務め、また頼朝との

関係もありました。

 

大炊御門右大臣藤原公能

(きんよし)のの長男で、

百人一首の撰者、

藤原定家のいとこです。

 

©翠邑 書

 

祖父が徳大寺左大臣と称された

ので、区別するため百人一首では

後徳大寺左大臣と呼ばれます。

 

職歴

「公卿補任」によれば、

1141年に3歳で叙爵が与えられ、

「台記」には1144年に叔母の

夫にあたる藤原頼長の

邸で元服したとあります。

 

以降、実定は順調に昇進を

重ねて1156年に左近衛権中将、

11月に従三位に叙され

て公卿になりました。

 

1158年に正三位権中納言 

に任ぜられ、後白河天皇の

姉の統子内親王が皇后になると

 皇后宮職の長官となりました。

 

1160年には正官の中納言、

1164年には権大納言へと昇り、

1165年これを辞して正二位

に叙されています。

 

これは「古今著聞集」によると、

同官で越階された藤原実長を

越え返すために行った

ものだという事です。

 

©japansumiecentre

 

ところが、その後12年間に

わたって位階のみは残して

職事官にない者とされました。

 

当時は 実定の家の徳大寺家と

平家は競合関係にあったので、

平清盛は実定、実家兄弟を

政治的排除の対象に

していたと言われています。

 

1177年には大納言に還任し、

12月に左近衛大将を兼ねました。

 

1183年に内大臣となり、

源義仲が法住寺合戦で

政権を奪取した時、実定は

喪中で公務に就けない

事実上の休職中でした。

 

これを期に義仲と結んで

政権奪回を画策していた

前関白の松殿基房は、僅か

12歳の嫡子、師家を藤氏長者と

するために、実定から一時的に

内大臣の職を借官する形で

師家の摂政内大臣就任を実現

させましたが、翌年1月には義仲が

敗死したことで基房、師家父子は 

失脚し、運が良い事に実定は

復官することができました。

 

©japansumiecentre

 

1185年源義経と後白河法皇に

よる源頼朝追討の命令文書に

一度は賛同したものの、

翌月には義経は京都を追われ

逃げてしまいました。

 

その後、意外にも他ならぬ

頼朝の推挙で議奏公卿に指名

された1186年に右大臣、

1189年7月には左大臣となり、 

九条兼実の片腕として朝幕間

の取り次ぎに奔走しています。

 

この時の職の「後徳大寺左大臣」

は祖父の徳大寺実能が

「徳大寺左大臣」として

知られていたことに由来します。

 

©翠邑 書

 

源頼朝の信頼

 

歌人として源義仲(よしなか)に

より内大臣の地位を藤原師家

(もろいえ)にかえられましたが,

翌年義仲の死で復職しています。

 

源頼朝が天皇に許しを乞う

ように差し向けて後、

下議奏公卿のひとりとなり,

右大臣,のち左大臣に

すすむことができました。

 

左大臣就任後は、病気がちとなり

大臣職の辞任との引換に

実定の後継者である三男の公継

の参議任命を望んでいました。

 

1191年病気のため官を辞して

出家し、如円と名乗りました。

 

7月17日に実定の希望通りに

公継が参議に任ぜられた後、

同年12月に亡くなりました、

53歳でした。

 

藤原実定が亡くなった時

源頼朝は「吾妻鏡」に 

「幕下(頼朝)殊に溜息し給う。

 

関東由緒あり。

日来重んぜらるる所也」

と記して、実定の死を悼んでいます。

 

©japansumiecentre

 

実定の妻と子供たち

 

藤原師長の娘、藤原師長の娘、

上西門院女房備後

 

子供

3人の妻には1人づつの

子供たち徳大寺公綱 、

徳大寺公守、徳大寺公継

 

生母不明の子供たち

道雲 、徳大寺公広 、公厳、

良全母、公方がいました。

 

 

 

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

 

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ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

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ありがとうございました。

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