翠邑日誌 

Suiyu’s Diary

 

榎本翠邑

元書法展会員、元太玄会会員、元瑞雲会評議員同人、

元全国書道師範連盟会員、

元東京書道教育会会員、英国ではブルネル大学ギャラリー、アルバートホール等

での展示、英国BBCテレビ「天皇」等があり、また「俳画」・「水墨」・

「書」・「花」等の書の担当での出版物があります。 

東京生まれ。
 

 

6月 百人一首 77 崇徳院

 

崇徳院

 

 77番 

 

続き

 

歌人としての崇徳院

 

崇徳院は在位中から頻繁に歌会を催し、

太上天皇になってからは和歌の世界に

没頭し、「久安百首」を作成し在位中に

藤原顕輔に「詞花和歌集」を

編纂させています。

 

鳥羽法皇は和歌に熱心でなかったので、

当時の歌壇は崇徳院を中心に 

展開したと思われます。

 

 

©Wiki

怨霊伝説

讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)

 「保元物語」

 

「保元物語」は崇徳院が怨霊るという

怨霊伝説物語で、後世へ大きな影響

を残したのが「保元物語」です。

 

 崇徳院は、後世菩薩の為に指から

流した血でお経を書写して、それを

寺社に納める事を願いましたが、

後白河院の反対によってその願いが

叶えることが出来ませんでした。

 

そのために生きながら天狗となり、

「日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、

民を皇となさん」と言って、自らの舌を

噛み切った血でもって誓状を

書き付けたと書かれています。

 

また、西行法師との関係性では

西行法師は崇徳院の死のあと、自らの和歌の力で

崇徳院の怨霊を沈めたとされています。

 

保元の乱と崇徳院

 

鳥羽上皇が亡くなったのをきっかけ

に保元の乱が勃発します。

 

保元の乱

 

1156年鳥羽法皇が病に倒れ亡くなりました。

「古事談」には、法皇は側近の葉室惟方に

自身の遺体を崇徳院に見せないようにと

言い残したため、崇徳院は臨終の前に

見舞いに訪れたのですが拒否

されてしまいます。

崇徳院は憤慨して鳥羽田中殿に引き返し、 

「上皇左府同心して軍を発し、国家を

傾け奉らんと欲す」という

噂が流されました。

 

 

©翠邑書

 

法皇の軍兵を集めることを停止する

後白河天皇の御教書が諸国に下される

と同時に、蔵人、高階俊成と源義朝の随兵が

摂関家の正邸、東三条殿に乱入して

邸宅を没収、このような行動は、法皇の権威

を盾に崇徳院、藤原頼長を抑圧していた

美福門院、藤原忠通、院近臣らによる

先制攻撃でありました。

 

7月9日の夜中、崇徳院は少数の側近と

ともに鳥羽田中殿を脱出して、

7月10日には、藤原頼長が宇治から上洛

して白河北殿に入り、崇徳院の側近である

藤原教長や平家弘、源為義、平忠正などの

武士が集結しました。

 

崇徳上皇方に参じた兵力は弱小で、

崇徳院は今は亡き平忠盛が重仁親王の

後見だったことから、忠盛の子の清盛が

味方になることに望みをかけていました。

 

重仁親王の乳母、池禅尼は上皇方の

敗北を予測して、子の平頼盛に清盛と

協力することを命じたのです。

 

後白河天皇方は、11日未明、白河北殿へ 

夜襲をかけ、白河北殿は炎上し、崇徳院は

御所を脱出して行方をくらましてしまいました。

 

 

©Wiki

怨霊伝説

讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)

 

 

配流

 

崇徳院は源為義、平家弘に擁護されて

東山の如意山に逃れましたが、

意を決して剃髪し13日、崇徳院は仁和寺に

出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを

依頼したのですが覚性が申し出を断ったため、

崇徳院は寛遍法務の旧房に移り、源重成の

監視下に置かれましたが、薬子の変の時代と

異なり保元の乱の時代には上皇が在家出家を

問わず院政を行う慣例が確立していたため、

出家は権力放棄の保証にはなれませんでした。

 

23日、崇徳院は武士数十人が囲んだ網代車に

乗せられ、鳥羽から船で讃岐国へ下った上皇の

配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の

淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事でした。

 

同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけ、

その後、二度と京の地を踏むことは 

なかったのでした。

 

保元の乱が終結してしばらくの間は

、崇徳院は罪人として扱われていました。

 

 

©japansuibokucentre

 

配流先での生活

 

「保元物語」によれば、崇徳院は讃岐国

での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して

極楽往生を願い、五部大乗経「法華経」

「華厳経」「涅槃経」「大集経」「大品般若経」

の写本作りに専念して、おそらく、普通に

墨で書いたのが、後の怨霊伝説物語になって、

写本を自らの血で書いたと作られたと思われます。

 

戦死者の供養と反省の証にと、完成した

五つの写本を京の寺に収めてほしいと

朝廷に差し出したところ、後白河院は

「呪詛が込められているのではないか」と

疑いこれを拒否して、写本を送り返

してしまいました。

 

これにより、怨霊伝説物語が始まります。

 

これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って

写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って

民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向

(えこう)す」と血で書き込んだ。

 

そして崩御するまで爪や髪を伸ばし

続けて夜叉のような姿になり、

後に天狗になったとされている。

 

 

崇徳天皇白峰御陵

 

『椿説弓張月』より崇徳上皇が讃岐で崩御し、

怨霊になる瞬間を描いた一場面歌川芳艶画)

 

また崩御後、崇徳の棺から蓋を閉めて

いるのにも関わらず血が溢れて

きたと書かれてあります。

 

しかし、本当の暮らしは「今鏡」にあるように

「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、

「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へ

て重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で

悲しさの余り、病気も年々重くなって

いったとは記されているものの、自らを

配流した者への怒りや恨み

といった話はありません。

 

また配流先で崇徳院が実際に詠んだ

「思ひやれ 都はるかに おきつ波

 立ちへだてたる こころぼそさを」

「風雅和歌集」という歌を見ても、

悲嘆の感情はうかがえても怨念を

抱いていた様子はありません。

 

さらにその生活は、配流先の

讃岐鼓岡木ノ丸御所で国府役人の

綾高遠の娘との間に1男1女をもうけて

いることからも、伺えます。

 

他にも、暗殺されたという説もあり、柳田が

上皇の暗殺地とされ石碑が立っています。

 

いずれにしても崇徳院は1164年

8月26日46歳という若さで亡くなりました。

 

 

 

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

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ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

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ありがとうございました。

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