翠邑日誌

 Suiyu’s Diary

 

榎本翠邑

 

元書法展会員、元太玄会会員、元瑞雲会評議員同人、元全国書道師範連盟会員、

元東京書道教育会会員、英国ではブルネル大学ギャラリー、アルバートホール等での展示、

BBCテレビ「天皇」等があり、また「俳画」、「水墨」、「書」、「花」等の

書の担当での出版物があります。 

東京生まれ。

 

 

 

5月 百人一首

 76 番 

法性寺入道前

関白太政大臣


藤原 忠通(ふじわら の ただみち)

 

わたの原 こぎいでてみれば

久方の雲いにまがふ 沖つ白波

 

わたのはら こぎいでてみれば

ひさかたのくもゐにまがふ

おきつしらなみ

 

©翠邑 書

 

 

大海原に船を漕ぎ出して見渡すと

はるか遠くの沖に、雲と見わけが

つかないような奇妙な白波が

立っているのが見える。

あれはなんじゃろ。

 

大海原に船を漕ぎ出してはるか遠くを

眺めると、空の雲と見分けが付かない

くらいに怪しげな沖の白波が立っている

ではないかというような、背後に何やら

意味深な裏の感情がある味方と、単に

大海原に漕ぎ出して見渡すと、雲かと

見まがうばかりの沖の白波だよ

「面白いな」と感嘆している

読み方があるようです。

 

百人一首のこの直前、直後の歌の詠み人は、

いずれも忠通との政争に敗れた人物 

藤原基俊、崇徳天皇です。

 

崇徳上皇の天皇在位時代、1135年4月に

行われた内裏歌合がありました。

 

その歌合は「海上望遠」というお題が出て、

それに応えて詠んだのがこの歌です。

 

 

藤原忠通

 

藤原 忠通(ふじわら の ただみち)

(1097-1164) は、平安時代後期から

末期にかけての公卿で歌人でした。

 

藤原北家、関白、藤原忠実の次男、

母親は右大臣源顕房の娘で師子。

 

1103年に百人一首73番の大江匡房の名付で、

「忠通」という名を授かりました。

 

1107年には元服して白河法皇の猶子、

親子関係を結んだ時の子となりました。

 

 

©JSC

 

1114年白河法皇の意向により法皇の養女、

藤原璋子(閑院流、藤原公実の娘)との

縁談が持ち上が理ましたが、璋子の素行に

やからぬ噂があったことから、父の忠実は

この縁談を固辞し破談とな理ました。

 

1120年父の忠実が娘泰子(高陽院)の

入内問題で白河法皇の勘気を被り蟄居と

なったあとをうけて法皇の勅勘を被り

関白を辞任した忠実に代わって藤原氏

長者となり、25歳にして鳥羽天皇の関白に

就任し、その後も崇徳、近衛、後白河の3代

に渡って摂政関白を務める事になりました。

 

官位は従一位、摂政 関白、翌年関白

となり、後に太政大臣になりました。

 

小倉百人一首で法性寺入道前関白太政大臣

(ほっしょうじのにゅうどうさきの

かんぱくだじょうだいじん)

通称は法性寺関白

(ほっしょうじ かんぱく)となっています。

 

妻たちは正室は藤原宗通の娘、

藤原宗子で、側室は源信子、源俊子が

いますが、忠通は両性愛者

だったとされています。

 

堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇、

後白河天皇の五代の天皇に仕えました。

 

©翠邑 書

 

1129年白河法皇の死去、鳥羽院政の開始で

父忠実が政界に復帰すると関白となって

実権を握りましたが、このことで父とは

不仲になり、1150年父より

義絶されてしまいます。

 

首長を異母弟の頼長に奪われ、また、

頼長が養女藤原多子を近衛天皇の後宮に

入れたことに対抗して,忠通は藤原伊通の

娘呈子(九条院)を養女として同じく後宮に

入れたため、摂関家内部での

対立が続いてしまいます。

 

しかし近衛天皇病没による後嗣問題で

忠通は崇徳上皇と対立していた

鳥羽上皇に後白河天皇の即位を

助言して鳥羽上皇の信頼を

回復することができました。

 

保元の乱と 忠通

 

1156年に皇位継承問題や摂関家の

内戦により、朝廷が後白河天皇方と

崇徳上皇方に分かれて戦った政変でした。

 

崇徳上皇方、藤原頼長(忠通の弟)は

流れ矢に当たって死に、崇徳院は

讃岐に配流になりました。

 

この背景には後の保元の乱に至る、

天皇家と摂関家を二分した複雑な

政争があったとされています。


©翠邑 書

 

1129年正妻腹の娘、聖子を崇徳天皇の

後宮に女御として入内させ、

翌5年1130年、聖子は中宮として

正式に迎えられました。

 

崇徳帝と聖子との夫婦仲は良好

だったのですが子供には恵まれず、

1140年女房、兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)

が崇徳帝の第一皇子、重仁親王を産むと、

聖子と忠通の感情はすぐれませんでした。

 

また保元の乱で崇徳上皇と重仁親王を

敵視したのもこのことが

感情的にあったようです。

 

1153年近衛天皇が一時失明の危機に

陥るほどの重病となった際、忠通は

天皇から譲位の意思を告げられこれを

受けた忠通は鳥羽法皇に後の

後白河天皇の孫王、後の二条天皇への

譲位を促しましたが、法皇からは

幼主を擁立して政を摂り威権を専らに

しようとする謀略とみなされ、忠実からも

「関白狂へるか、父の雅仁親王が

黙っているはずがない」

などと非難されてしまいます。

 

1155年の後白河天皇の位を受け継いだ後、

忠実、頼長が近衛天皇呪詛の嫌疑で

失脚した事から彼らの権限が

復活される事になりました。

 

それら一連の対立が保元の乱の

原因の一つとなったと思われます。

 

保元の乱の後

 

乱後、崇徳上皇方について敗れた

父の所領を相続しています。

 

©JSC

 

父の流罪を防ぎ、摂関家の保全に

尽力したとされました。

 

氏長者の地位は回復され増したが、

その際に前の氏長者である頼長が

罪人となった事、また頼長が

死亡していることを理由として、

藤原氏による自律性を否認

されてしまいます。

 

更に忠実と頼長が所有していた

摂関家伝来の荘園や個人の荘園が

全て剥奪されることにな理ましたが、

忠通が忠実に摂関家伝来のものと

忠実個人の荘園「宇治殿領」を自分に

譲与するように迫り、漸く忠通の所領

として認められて没収を回避しています。

 

ただし頼長領の没官は

免れられなかったようです。

 

1162年、66歳で出家、法性寺に入って

円観と号しましたが、2年後の

1164年に68歳で亡くなりました。

 

忠通は陰謀家、または行動派で

やり手だったとされています。

 

©JSC

 

忠通は鳥羽法皇や平氏等の院政勢力と

巧みに結びつき、保元の乱に続く、

平治の乱でも実質的な権力者

であった信西とは対照的に生き延び、

忠通の直系子孫のみが鎌倉時代

中期に成立した藤原氏嫡流で

公家の家格の頂点に立った五摂家、

近衛家・一条家・九条家・鷹司家、

二条家の5つの一族のことで、

五摂家は原則的に明治維新まで摂政、

関白職を独占する事となりました。

 

歌人としての忠通

 

詩歌にも長じ

幼い頃から和歌に取り組み、

源俊頼や藤原基俊などから

指導を受けています。

 

和歌を好み、大治年間に

至るまで歌合や歌会が

数多く催されました。

 

「相撲立詩歌合」

は忠通の発案でした。

 

小倉百人一首76番

「法性寺入道前関白太政大臣」

は晩年、法性寺の別荘に住んだこと

から法性寺関白と名乗りました。

 

「金葉集」以下の勅撰集に69首が

入集していますが、「今鏡」では

歌について「柿本人麻呂にも恥じず」

また漢詩をつくれば菅原道真より

優れていると美辞麗句に

満ちたものになっています。

 

©翠邑 書

 

漢詩としての忠通

 

また漢詩の才能にも優れ、

詩会を主催し、白河院より

「続本朝秀句」の選を

命ぜられています。

 

のちに「本朝無題詩」

を編纂させています。

 

漢詩集は「法性寺関白集」、

家集に「田多民治集」があり、

日記には「法性寺関白記」

があります。

 

書家としての忠通

 

能書の誉れ高く、肉太で、

丸味と力強さを兼ね備えたその書風は

法性寺流と称され、後代にまで

影響をおよぼし、書法では

法性寺様といわれました。

 

1158年に摂関職を子基実に譲り、

1162年に出家して法名は

円観と名乗りました。

 

子孫は近衛家、九条家に分かれて

さらに五摂家となっていきました。

 

 

 

藤原忠通筆書状案

(京都国立博物館蔵、国宝)

 

藤原基衡が毛越寺に伽藍を

建立した際、金堂円隆寺に掲げる

額の揮毫を忠通に依頼しました。

 

しかし、奥州藤原氏は京都から

すれば俘囚、つまり蝦夷征伐

などの後、朝廷の支配に属する

ようになった者を指し夷俘とも

呼ばれた係累であったため、身分を

明かして依頼しても応じられるはず

がないため、実際の依頼は仁和寺

を通して行われたのです。

©JSC

のちに真の依頼者を知った忠通は

額を取り返そうとしましたが

失敗に終わりました。

 

「吾妻鏡」には

「円隆寺の額は関白忠通の筆、

色紙形は藤原教長」

と書かれています。

 

 

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

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ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

 

 

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ありがとうございました。

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