翠邑日誌 Suiyu’s Diary
榎本翠邑
元書法展会員、元太玄会会員、元瑞雲会評議員同人、元全国書道師範連盟会員、
元東京書道教育会会員、英国ではブルネル大学ギャラリー、アルバートホール等での展示、
BBCテレビ「天皇」等があり、また「俳画」、「水墨」、「書」、「花」等の
書の担当での出版物があります。
東京生まれ。
©翠邑 書
3月 百人一首 74番 源俊頼朝臣
百人一首 74番
源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)
憂かりける(うかりける) 人を初瀬の
山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを
うかりける ひとをはつせの やまおろし
はげしかれとは いのらぬものを
©翠邑 書
私に冷たく辛くあたったあの人の心が
変わるようにって、初瀬の観音さまに
祈りしたのに、初瀬の山おろしよ。
まるで山から吹き降ろす激しい風
みたいに、冷たくされてしまったよ。
そんな風には祈らなかったのになあ。
好きな女性との恋がうまくいきます
ように、と祈ったのに、まるで山から
吹き降ろす風のように冷たくされて
しまった。
そんな風には祈らなかったのに
という意味の歌です。
冷たい女性のことを、山から吹き
降ろす風のように冷たい、と例えて
表現しているところですね。
初瀬の観音さまは、現在の奈良県
の長谷寺のことで、十一面観音が
祀られています。
平安時代の女性からは、観音像に
願うと恋が実ると言われているので、
特に人気があったとされています。
「山おろし」は、
「山から吹き降ろす激しい風」
のことで、初瀬の名物でした。
源俊頼朝臣
(みなもとのとしよりあそん)
1055~1129
百人一首71番に選ばれている
大納言経信(つねのぶ)の3男で、
85番、俊恵法師の父です。
堀河、鳥羽、崇徳天皇に仕え、
堀河朝の歌壇の中心人物として
活躍しました。
官職の面では不遇で、51歳から
従四位上の木工頭(もくのかみ:
木材調達、建築、職人管轄を行う
役所の長官)を数年つとめた後は、
亡くなるまでの20年間を「前木工頭」
として無官で過ごしました。
楽人
雅楽の吹き物の一種で神楽などで
使う管楽器の1つ篳篥(ひちりき)を
得意とし、堀河天皇の楽人となりました。
©Japansuibokucentre
和歌
その後和歌の才能も認められ、
多くの歌合で作者、判者を務めました。
48番、源重之がはじめた「百首歌」を
発展させて、当時の有名歌人16人による
「堀河院百首」を企画、推進します。
これによって百首歌の形式が
完成しました。
また、晩年の70歳で白河法皇の
命を受けて「金葉和歌集」の
撰者となりました。
「金葉和歌集」以後の勅撰和歌集に
201首入集。
「金葉和歌集」(35首)と「千載和歌集」
(52首)では最多入集歌人となっている
代表歌は、
鶉(うずら)鳴く 真野の入江の
浜風に 尾花波寄る 秋の夕暮れ
「金葉和歌集」秋
©翠邑 書
藤原基俊(ふじわら の もととし)と共に
当時の歌壇を代表する
存在となり、歌風として、革新的な歌を
詠むことで知られました。
和歌は非常に技巧的でしかも情感があり、
藤原定家が絶賛しています。
また、歌人としてだけでなく
、和歌の批評家としても
高く評価されています。
歌書
関白藤原忠実の依頼により、
その娘、泰子(高陽院)のための
作歌手引書として歌論書
「俊頼髄脳(としよりずいのう)」
を著しました。
保守的な立場の75番、
藤原基俊とはライバル関係で対立し、
彼の歌は「ざれごと歌」と
けなされましたが、斬新な題材と
手法を用いた作風は、後世まで
大きな影響を与えました。
小倉百人一首
うかりける人を初瀬の山おろしよ
激しかれとは祈らぬものを
千載和歌集」
百人秀歌(小倉百人一首の原撰本)
山桜咲きそめしより久方の
雲居に見ゆる滝の白糸
「金葉和歌集」
©翠邑 書
百人秀歌と小倉百人一首の両方に
採られている歌人で、異なる歌が
採られているのは俊頼だけなのです。
著書
家集「散木奇歌集」(さんぼくきかしゅう)
十巻を自撰しています。
歌学書「俊頼髄脳」
書家
歌人として高名で、能書家としての
記録はありませんが、父の経信も
子の俊恵もともに能書家であり、
古筆中には俊頼の書として伝えられる
ものが多く、中でも有名なものは下記の
「巻子本古今集」
「元永本古今集」巻子本と元永本は
藤原定実の筆とする説が
有力になっています。
「三宝絵詞」(東大寺切)
などがあります。
エピソード1 歌人はあなどらない
二人の歌人、紀 貫之(き の つらゆき)、
凡河内 躬恒(おおしこうち の みつね)
が勝劣を競い合うことのなりました。
©Japansuibokucentre
ひきうゑし人はむべこそ老いにけれ
松の木高くなりてけるかな
(凡河内躬恒)
引きぬき移し植えた人は、
もっともなことに、老いたことよ、
長寿の松の木が高くなって
しまったなあ、うえつけた妻は、
もっともなこと、待つの気、
高い山ばに成ってしまったなあ。
夫婦の老いを松の木の成長に
ことよせて述べた歌です。
思ひかね妹がり行けば冬の夜の
川風寒み千鳥なくなり
(紀貫之)
恋しさに耐え兼ねて彼女のもとへ
行く途中、冬の夜の川風が寒いから
千鳥が鳴いているよ
この2つの歌の優劣の結論を得ず、
白河院のご意向をうかがおうと
言う事になりましたが、
白河院は私より第一人者の俊頼に
尋ねよと答えました。
藤原俊頼に事情を伝えたところ、
二三日して、俊頼は白河院をたづねます。
©翠邑 書
躬恒をばな侮り(あなどなり)給ひそ
「躬恒を侮られてはいけませんぞ」
と言うと
「さらば、貫之が劣りはべるか」
「ならば、貫之の方が劣えているのか」
と責めたてられると、ただ、同じように、
「躬恒をば侮らせ給ふまじきぞ」
「躬恒を侮られることはできないでしょう」
と言いました。
長明の歌の師、俊恵法師は、
上の様な話をされて、
「真に躬恒がこと、詠み口深く
思ひ入りたる方は、また類なき者なり」
「ほんとうに、躬恒の歌、詠み口深く、
思いが込められてある手法は、
他に類がないものである」
と言われたとあります。
エピソード2 名前を歌に入れる
鴨長明の歌学書
「無名抄(むみょうしょう)」に
「我が名を歌に詠み入るる話」として
物名、隠し題の歌があります。
法性寺殿関白藤原忠通の
邸宅で歌会がありました。
©翠邑 書
卯の花の 身の白髪とも
見ゆるかな 賎(しづ)が
垣根も としよりにけり
卯の花が我が身の白髪のように
見えることだなあ、自分同様、
賎の伏屋の垣根も
年を取ったことだよ。
「散木奇歌集」
歌合では、78番の源兼昌が
講師(こうじ)歌会で歌をよみあげる
役目の人となって俊頼の歌を
詠もうとすると短冊に詠人の
名がありません。
俊頼の歌に名が書いてないのに
気が付いた兼昌が、俊頼に
知らせようと目配せをしたり
咳払いをしましたが、俊頼には
一向に気づく様子がありません。
たまりかねた講師が小声で
「名前はいかに」
「お名前をお忘れでは」
と促し小声で注意したところ、
「とにかくお詠み下さい」
と言われたのでそのまま
歌を詠みました。
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卯の花の身の白髪とも
見ゆるかな賤(しづ)が
垣根もとしよりにけり
歌にはちゃんと俊頼(としより)
の名が読み込まれていたのです。
名前が詠みこまれているのを
知った兼昌は、しきりにうなずき
ながら感心していたそうで、
藤原忠通もこれをたいへん面白がった
と「無名抄」に書かれています。
ではまた、ごきげんよう。
ありがとうございました。
ごこれからもよろしくお願い申し上げます。
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ありがとうございました。