翠邑日誌 Suiyu’s Diary

榎本翠邑

 

元書法展会員、元太玄会会員、元瑞雲会評議員同人、元全国書道師範連盟会員、

元東京書道教育会会員、英国ではブルネル大学ギャラリー、アルバートホール等での展示、

BBCテレビ「天皇」等があり、また「俳画」、「水墨」、「書」、「花」等の

書の担当での出版物があります。 

東京生まれ。

 

12月 百人一首 71 

 

大納言経信 (だいなごんつねのぶ)

 

 

百人一首 71 大納言経信 (だいなごんつねのぶ)

経信(みなもと つねのぶ)

 

夕されば門田の稲葉訪れて

蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く

 

 ゆふされば かどたのいなば おとづれて

 あしのまろやに あきかぜぞふく

 

 

©翠邑 書

 

夕暮れになって、前の田んぼの稲葉が

さやさやと音をたてると、

私の茅葺きの田舎家にも

秋風が吹き通って行くんだよ。

 

 

 

  稲の収穫近い田んぼの稻の葉に

秋風がそよいでいます。

 

 やさやさやと音を立てる

黄金色の稲穂は爽やかですが、

 秋風が吹く、どこかもの寂しい

夕暮れ時のを詠った歌です。

 

 

経信(みなもと つねのぶ)

 

源 経信(みなもと の つねのぶ)1016ー1097年は、

平安時代後期の公家で歌人です。

源氏の氏族で著名だった宇多源氏(うだげんじ)、

権中納言、源道方の六男として生まれました。

 

母は播磨守(はりまのかみ)源国盛の女(むすめ)

で歌人です。

 

官位は大納言、経信は洛西の桂、

桂離宮近辺に別荘を持っていたため

「桂大納言」と呼ばれていました。

 

 

©japansumiecentre

 

ちなみに源氏物語では、光源氏の別荘があり、

源氏は嵯峨御堂の桂別荘に行くと称して

大堰の明石の君を訪れていた

という話が出てきます。

 

4人の息子に恵まれ、3男

源 俊頼(みなもと のとしより)も

歌人で勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)

などに選集されています。

 

経信は長寿でしたので、後一条天皇、後朱雀天皇、

後冷泉天皇、後三条天皇、白河天皇に仕え、

1097年大宰府で82歳で亡くなりました。

 

 

 

©翠邑

 

 

大納言経信の和歌他の経歴

 

小倉百人一首では大納言経信と称され、

新古今風の和歌の先駆者です。

 

詩歌、管絃に秀で、特に琵琶は第一人者

といわれ自筆の「琵琶譜」が現存しています。

 

昔からの行事や儀式、制度、官職、習慣の

先例やそれらを研究する学問、

有職故実にも通じ、あまりにも多芸多才

だった為藤原公任と比較されました。

 

以前にも書いたことがありますが、

逸話に白河天皇の大堰川行幸で、

それぞれに得意とするものを漢詩、和歌、奏楽

の3船に分乗させ技を競わせる催しで、

わざと遅れて行き

 

「いづれの船なりとも寄せ給へ」

 

「どの船でもよいからつけてほしい」

 

と言って管弦の舟に乗り、

見事な演奏をやってのけ

万能ぶりを誇示しています。

 

©翠邑

 

 

「十訓抄(じっきんしょう)」

「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」は、

三船(さんせん)詩、歌、管絃(かんげん)

の才を賛美したものです。

 

嵐山で恒例の三船祭は

この故事にもちなんだものです。

 

歌人たちとの交流も広く、

大江匡房、相模、周防内侍、

伊勢大輔の名前が上がっています。

 

1041年の「祐子内親王家名所歌合」を

はじめとして、多くの歌合に参加しています。

 

当代一の歌人だった埃から、

自分をさしおいて藤原通俊が

1086年白河天皇の勅命により

「後拾遺和歌集」を撰集して

奏覧したのですが、経信はこれを

批判して反発し、その後「後拾遺問答」、

「難後拾遺」を書いたことで、

通俊の撰集は低く

評価されてしまいました。

 

 

©japansumiecentre

 

通俊は現代的な新風を吹き込ませた

考えから主張された作品だったのですが

一方、経信が表しかったのは

格調の高さの自負だったのでしょう。

 

詩文は、「本朝無題詩」

「中右記部類紙背漢詩集」に25首の詩を載せ、

「本朝続文粋(もんずい)」「朝野群載」

「本朝文集」に4編の文章、

「後拾遺和歌集」6首以下の勅撰和歌集に

87首が入集されています。

 

家集には「経宣集」、

「大納言経信集」日記は

「帥記(そっき)」があり、

この日記は院政期の重要な

史料として残されています。

 

「中右記」の作者である藤原宗忠は

「朝家の重臣」と讃え、

経信の死を嘆いています。

 

 

©japansumiecentre

 

宇多源氏(うだげんじ)は源氏の氏族で著名

宇多源氏の代表的な家紋の角立て四目結い

 

 

大納言経信と鬼

 

この時代の出来事を、2人の江戸時代、

明治の巨匠が大納言経信

にまつわる出来事を描いています。

 

「唐衣打つ音聞けば月清み まだ寝ぬ人を空に知るかな」

 

と経信が詠んだところ、

音の正体は鬼だったという

説話を題材にした作品です。

 

経信作になっていますが実際の作者は

紀貫之です。(新勅撰和歌集 323)

 

 

『から衣うつ声きけば月きよみまだねぬ人を空にしるかな』

 

(月岡芳年『月百姿』)源経信と鬼

 

月百姿は、1885年から1892年にかけて

刊行された全百枚からなるシリーズ作品で

日本と中国の物語、詩歌、謡曲等から構想を

得て様々な月の姿を表現した芳年の晩年の大作です。

 

月百姿の芳年の晩年の大作の中にある「源経信と鬼」

 

秋の月が清らかで、

 澄んだ夜空の下に衣を打つ音が響いている。

 

 まだ寝ていない人がいるのだろう。

 

 その人も、この月を見上げるだろうか。

 

 経信の帥大納言(源経信のこと)、

八条わたりに住み給ひけるころ

九月ばかりに、月のあかかりけるに、

ながめしておはしけり。

 

砧(きぬた)の音のほのかに聞こえ侍れば。

 

 

©翠邑 書

 

 

四条大納言(藤原公任)の歌

 

「からころも打つ声聞けば月清み

また寝ぬ人をそらに知るかな」

 

と詠ふ給ふに、前栽の方に、 

北斗星前横旅鴈 南楼月下擣寒衣

といふ詩を、まことに恐しき声して、

高らかに詠ずる者あり。

 

「誰ばかり、かくめでたき声したらん」

 

と思えて、驚きて、見やり給ふに、

長(たけ) 一丈五六尺(5m)侍らんと思えて、

髪の逆様に生ひたる者にて侍り。

 

「こはいかに、八幡大菩薩、助けさせ給へ」

 

と祈念し給へるに、

この者、「何かは祟りをなすべき」

とて、かき消ち失せ侍りぬ。

 

「さだかに、いかなる者の姿とは、よくも思えず」

と語り給へりけり。

 

朱雀門の鬼なんどにや侍りけん。

 

それこそ、このころ、

さやうの数寄者(すきもの)にては侍りしか。

 

撰集抄  巻8第27話  四条大納言

 

源経信と鬼(歌川国芳)

歌川 国芳(うたがわ くによし)(1798-1861)

 

 

ある日、源経信が自宅で和歌を

つくっていたところに朱雀門院の鬼が

やって来て経信の前で漢詩を吟じたものです。

 

 

「北斗星前横旅雁 南楼月下擣寒衣」

と漢詩で応えたとされています。

 

風流のわかる鬼でした。

 

 

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

 

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ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

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ありがとうございました。

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