榎本翠邑

 

元書法展会員、元太玄会会員、元瑞雲会評議員同人、元全国書道師範連盟会員、

元東京書道教育会会員、英国ではブルネル大学ギャラリー、アルバートホール等での展示、

BBCテレビ「天皇」等があり、また「俳画」、「水墨」、「書」、「花」等の

書の担当での出版物があります。 

東京生まれ。

 

 

 

 

 1月 賀頌  令和四年一月一日   2022

 

 

明けましておめでとうございます

 

輝かしい年の初めに

健やかに新春をお迎えのことと存じます

 

旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り、誠にありがとうございました

本年も相変わらず、よろしくお願いいたします。

 

皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

 

榎本翠邑  上田トミ 

 

 

 

 

百人一首 60番 小式部内侍

 

 

 

大江(おほえ)山  

いく野の道の

 遠(とほ)ければ

まだふみもみず

 天の橋立

 

おほえやま いくののみちの

 とほければ まだふみもみず

 あまのはしだて

 

 

翠邑 書

 

 

大江山を越えて母のいる丹後の国(京都)へは、

生野を通らなきゃ行けない遠い道だから、

まだ天橋立なんて、行ったことないわ。

 

だから、天橋立に住む母からの手紙なんて、

見る訳ないじゃない

 

 

「金葉集」には

小式部内侍に関するものが語られています。


「当時、小式部内侍は年少に関わらず歌が

非常に上手だという評判でした。


それが、あまりに上手だったので、

母の和泉式部が代作をしている

のではないかと噂が出るほどでした。」

 

とあるように、内侍は、和泉式部の娘で、

歌の才があったので、母の和泉式部の代作

だろうと思われていました。

 

この歌については、

ある日小式部内侍は歌合

(歌を詠み合う会)に招かれますが、

その頃、母の和泉式部は夫とともに

丹後国に赴いており不在でした。

 

 

 

翠邑 書

小式部内侍の歌があまりにも

上手なので和泉式部が和歌を代作

しているのではないかと噂されていました。

 

宮中の歌会で藤原定頼に

「丹後(京都)にすむ母に代作をたのむ使いを出したの?」

 

とからかいの言葉をかけられた時に即座に

「大江山」のこの歌を読んで

小式部内侍の才能を示しました。

 

大江山を越えて母のいる京都へは、

生野を通らなきゃ行けない遠い道よ、

だから天橋立なんて、行ったことないわ。

 

天橋立に住む母からの手紙なんて、

見る訳ないじゃない。

 

四条中納言自身は小倉百人一首に

選ばれている歌人でしたが、

小式部内侍の即答の歌に驚き、

返歌を返すのも忘れ、

その場を去っていってしまいました。

 

この事があってから、

小式部内侍の歌人としての

名声が上がったという事です。

 

母と共に宮仕え

 

小式部内侍は、母親の和泉式部と同じ時期に

中宮 彰子に宮仕えをしていました。

 

そのため、和泉式部と区別するために

「小式部」と名付けられています。

 

小式部内侍の逸話

小式部内侍の逸話は、下記の

「大江山」の歌のエピソード、

また教通との恋のエピソードを中心に、

「十訓抄」(じっきんしょうや

「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう)など、

多くの説話集で見る事ができます。

 

また「無名草子」(むみょうぞうし)には

理想的な女性として賞賛されています。

 

女房三十六歌仙(にょうぼうさんじゅうろっかせん)

の一人です。

 

鎌倉中期に成立した「女房三十六人歌合」に

歌を採られた女性歌人三十六人を指します。

当該歌合(うたあわせ)は、

一人三首ずつ番わせた紙上の歌合です。

 

 

 

 

翠邑 書

 

小式部内侍が関わった男性たち

 

母親の和泉式部同様恋多き女流歌人として、

分かっているだけで

5人の貴族たちから愛されました。

別々の男性から3人の

子供をもうけています。

 

藤原教通

藤原教通 (ふじわら の のりみち)

関白 教通、子供、静円

 

藤原頼宗

堀河右大臣  藤原頼宗(ふじわら の よりむね)

藤原道長の次男、

 

藤原範永

藤原範永、(ふじわら の のりなが)

子供、娘

 

藤原定頼

藤原定頼(ふじわら の さだより)

 

藤原公成

滋野井別当、藤原公成

(ふじわら の きんなり、きみなり)

頭中将 公成

子供、頼忍阿闍梨

 

滋野井別当、藤原公成

(ふじわら の きんなり)

頭中将 公成(きみなり)の子

(頼忍阿闍梨)を出産した際に

25歳の若さで亡くなっています。

 

 

 

翠邑 書

 

母の和泉式部が詠んだ歌

娘小式部に先立たれた和泉式部の

悲しみは相当なものだったようで、

多くの哀傷歌が残されています。

 

その中でも、一番有名なのは、この和歌です。

 

とどめおきて

誰をあはれと

思ふらむ

子はまさるらむ

子はまさりけり

 

小式部、あなたは死ぬ間際に何を思ったの?

きっとあなたの子供、

頼忍阿闍梨のことを思ったんでしょうね。

 

私だって親を亡くした時よりも、

子供のあなたにに先立たれた今のほうが辛いわ。

 

和泉式部の深い悲しみが伝わってくる和歌です。

 

 

母の和泉式部が関わった男性たち

 

橘道貞(たちばなのみちさだ)

 

夫は和泉守、橘道貞

(たちばなのみちさだ)娘は、

小式部内侍です。

 

為尊親王(ためたか)

 

夫道貞と離婚。

 

その後、冷泉天皇の皇子、

為尊(ためたか)親王と恋に落ちます。

 

身分違いの恋愛であるとして

親から勘当されています。

 

ところが、為尊親王は1002年に

26歳で病死をしてしまいます。

 

敦道親王(あつみち)

 

このすぐ後で、

為尊親王の実弟であった

敦道(あつみち)親王と恋に落ち、

敦道(あつみち)親王の邸宅に住みます。

 

この処置に敦道親王の正妃

(藤原済時の娘)(ふじわら の なりとき)

が激怒し家出し、

その後敦道親王と正妃は

離婚してしまいました。

 

このことは「栄華物語」

「大鏡」などの書物に

スキャンダラスな女として

描写されていますから、

当時は噂の的となった

女性だったのでしょう。

 

1006年頃に、和泉式部は

敦道親王の男子永覚を儲けますが、

1007年に敦道親王は早世してしまいます。

 

藤原保昌(ふじわら の やすまさ)

 

それからしばらくして

彰子の父、藤原道長に仕えていた

藤原保昌(ふじわら の やすまさ)

宮仕え中の和泉式部に一目惚れし

求婚しますが、

無視されてしまいます。

しかしのちに結婚。

オシドリ夫妻と

言われるようになります。

 

恋に生き、儚く終わった

小式部内侍の人生。

母に似て、

恋に生きた女性でした。

 

 

 

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

 

謹んで新年のお慶びを申し上げます。

 

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

令和四年一月一日

 

 

 

ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

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