「ちょっといいかしら」

今から伝えようとすることに彼女自身が幾ばくか物怖じしていることを僕は感じないわけにはいかなかった。

 

「どうしたんだい?」

仕事から帰ってきたばかりの僕は出来る限り平静を装い、ケーブルテレビを付けながら応えた。テレビはペンギンズvsキャピタルズのプレーオフ第2ラウンド第4戦を流していた。そのアイスホッケーの試合はペンギンズのホームであるピッツバーグで開催されているようだ。ピッツバーグという町にはそもそもペンギンがいるのか、ピッツバーグと旭川はどちらの北緯が高いのか(旭川の北緯はニューヨークより高いことを僕は既に知っていた)、彼女の問いかけが無ければ僕はそんな疑問を彼女と長い時間をかけて今夜一緒に答えを探していただろう。

 

雷が光ったら雷鳴を聞くまで待ってしまうように、僕は彼女の次の言葉を待った。彼女(正確には妻だが、お互いに言いたいことをどのように伝えるか探り合う空気の中で、僕は結婚前の彼女の姿を重ねてしまっていた)は言った。

「そうね、2つあるの」

彼女はダイニングの椅子に座り直しながら言った。

「2つ、あるのよ」

 

彼女は続ける。

「良い話と悪い話、どちらから聞きたい?」

 

(やれやれ、今夜の話は長くなりそうだ)

僕はそう観念した。テレビではペンギンズのパワープレイが始まっていた。ペンギンのマークがついたユニフォームに身を包む観客たちが大声を上げて応援している。

(悪い話を先に聞いてしまった方が良いに決まっていると誰もが言うかもしれない。あるいは僕もそうすべきだったのかもしれない)

「良い話から聞こうかな」

 

雷の光よりもっと瞬間的な笑顔だった。でも彼女は良い話から始められることを喜んでいたようだった。

「あのね、私、ニューヨーク好きよ。日本と比べたら不便なことがあるのも事実だけど、ここに来て良かったと思っている。あと何年駐在することになるか分からないけど、いつか東京に帰ったとしてもまたニューヨークには来たいな、って思っているよ」

 

彼女の意外な告白を、僕はソファに深く身をうずめることで受け止めた。ペンギンズのパワープレイはまだ続いている。

東京で満足(平凡なサラリーマンの目線の中ではあるが)な生活な送っていた中で突然ニューヨーク転勤を命じられ、何一つ他の選択肢が無いことに文句を言わずニューヨークに来てくれた彼女が、実際にここでの生活をどのように思っていたかを僕は聞き出せずにいたのだ。

そしてこの言葉で、僕の目の前にいる女性は彼女ではなく、やはり妻なのだ、と再確認した。

「ありがとう、とても嬉しいよ。一緒にニューヨークを楽しもう。」

 

僕は意を決した。まもなく雷が落ちる。

「そのためにも、悪い方の話も聞かないといけないね。何があったの?」

 

雷鳴が聞こえるまで何秒経っただろう。1秒だったかもしれないし、30秒だったかもしれない。ただ、その言葉を聞いた時にペンギンズのパワープレイが終わっていたことだけは覚えている。

「ちょっと地下室まで来てくれる?」

 

帰宅してやっとソファでくつろぎ始めた僕にとって、地下室への移動は必ずしも歓迎できる提案ではなかった。雷が天ではなく、地下から湧き上がることも木曜日の夜には相応しくなかった。(明日の金曜日も普通に仕事だ)

「やれやれ」

僕は時間をかけて立ち上がった。妻もゆっくりと地下室への階段と歩いていく。ゆっくりゆっくり、と。

結婚前に旭川動物園でペンギンの散歩を見にいった時のように。

 

アイスホッケーの試合は製氷の時間に入ったようだ。テレビはCMに切り替わる。

階段を下りるたびに、GEICOのCMの音が遠のく。

 

妻は、地下のボイラー室の前で立ち止まった。そして、僕の目を見据えて言った。

「開けてみて」

 

僕はボイラー室のドアに手を当てて、しばらく考えた。この部屋の中に何があったとしても、僕はまた妻と一緒にニューヨーク駐在をしたい。このドアを開けるためには、その決意が必要だった。

僕はボイラー室のドアを開けた。

 

 

その部屋に入ることをためらうくらい、床が濡れている。

 

 

 

明らかに壁や配管類も濡れている。どうやらこの部屋に大量の水が溢れ出たようだ。

雷ではない、雷雨だったのだ。

 

 

本来、その内部に貯めてあるべき水分がタンクの外側に付いていることを僕ははっきりと目視していた。

 

僕が目に見えている世界の意味を理解しようとするが、僕の背中は早くも答え合わせを始めていた。

「給湯器に何かトラブルがあったのは事実。でも一番不幸なことはシャワーのお湯が出ないのよ」

 

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というわけで今夜はいつも以上に我が加齢臭を感じながら、我が家を襲った突然の大惨事を村上春樹っぽく書いてみました。