文藝の特集で、作家・江國香織は「私のなかにいる「九歳の子供」」というタイトルのロングインタビューに答えている。私は「不倫」や「恋愛にのめり込む女」を多く描いている江國と、「子供」という言葉に違和感を覚えて、その本を手に取った。するとインタビューでは、私の考える「子供像」とは違う子供が語られていた。

 「成熟していない」「これから知識や経験を身につけて、完成=大人に近付いていくもの」・・これが私の想像する「子供」のイメージ。では江國が考える「子供」とは?

 江國が言う子供は、
 「眼を見開いている子供」
 
だ。世界をにらみつけて、私から見える世界をじっと観察している子供。それは「大人に近付いていくにつれて完成していく」のではなく、「すでに完成している」子供である。
 
 江國は「結局社会って、小学校の延長にあって、子供がそれぞれ人の中に今もそのまんま生きてるんじゃないか、って考えると、すごく怖くなるときがあります」という。「それで実際たぶんほとんどの人が、その頃の自分をまだ持ち歩いていると思うから(中略)同じ行動をするわけではないとしても、やっぱり出るの、何かが。」 子供から大人に変化していくのではなくて、今も自分の中にその子供がいる。
 また江國は、子供はまだ自我が確立していないので“何か一つ 圧倒的な「世界」があってその中に自分がいる”とは思えない、という。だから子供は客観的に観察し「世界がこう見えている。だから私はおそらくここに存在している」という「物の見方」をする。
 

 人それぞれの中にいる「子供」。子供が目を見開いて、圧倒的な・確固たる一つの共通した「世界」とは違う、それぞれの世界を見ている。江國が自身の小説で「不倫」とか「恋愛中の女」をテーマにしていながら、昼ドラのような「どろどろした関係」や「世間と対立し堕ちていくカップル」として描いていないのは、江國が、登場人物たちの中にいる「子供」を描いているから、という気が私にはしている。



 「世界観っていうのも侵犯不可なものでしょう。だから世界っていうのは無数にあって、そうすると言い方で全然違う。同じ世界も青かったり赤かったり寒かったり暑かったり一遍にする」 圧倒的な世界の中に存在している私、ではなく、自分の眼で見た「それぞれの世界」を持つ子供たち。だからこそ、そこに「世間の常識」や「一般的な恋愛」というものさしは存在せず、それが江國の描く恋愛を、美しくも恐ろしくも見せているように感じる。

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