1923年9月1日 11時58分
関東大震災

東大の地震計 約10分の揺れ


家屋倒壊


この数ヶ月前に
アメリカの建築家
アントニン・レーモンドが建てた後藤新平邸は無事。

耐震設計に長けた建築家と名を上げる。


日本家屋倒壊で圧死者続出。
お昼時でもあり火災発生メラメラ

逃げようにも道幅が狭く動けず…


皇居前広場や更地になった陸軍被服廠跡地などに避難する。

被服廠跡地に押し寄せ避難していた4万人のうち3万8千人
火災旋風で死亡


9割が火災の犠牲


ラジオなどない時代
情報源は新聞のみ
その新聞社が機能せず
社会主義者や朝鮮人が火を放ったとデマが……多数殺害される



後藤新平内務大臣

燃えない近代都市
帝都復興計画

帝都復興院

区画整理について
銀座の大地主である枢密顧問官の伊東巳代治が反発。(太平洋戦争を知らずに亡くなっている)




区画整理し、
幅22m以上の幹線道路52本整備


小学校 鉄筋コンクリートに

街路樹には火炎に強いイチョウイチョウや柳を植えた。


しかし……
予算削減のため復興事業中途半端に終わる(第一次世界大戦後の好景気一気に冷え込んだためダウン



道幅44mの道路10本以上→2本だけ
避難できる公園8ヶ所→3ヶ所だけ


本来の計画通りに出来ぬまま
復興祭を見ることなく
1929年
後藤新平死去



結局、鉄筋コンクリート普及せず、木と紙で出来た家に密集して暮らしていた人々。

(昭和40年代ぐらいまでは長屋とか木造の家多かったんじゃないかな?
実母の家が幽霊魂おばけ出そうな2階建ての木と紙の家だった。幼稚園も木造だったなぁ…)




22年後
太平洋戦争

アメリカアメリカ
戦争を一刻も早く終わらせるには、日本を出来るだけ迅速に、効果的に打ち負かすこと…



日本の家の構造を知り尽くしていた
アントニン・レーモンド
米軍のために日本の家労働者の家を複製。
(火災旋風で亡くなった人たちのあまりの惨状に気分が悪くなったと言ってたのに…また…)





細部にわたり日本家屋を再現
畳はハワイから取り寄せた


実験により焼夷弾が効果的…と。




東京大空襲

鉄筋コンクリートにしていれば…
道幅44mの道路10以上にしていれば…
避難できる公園8ヶ所作っていれば…



震災には役立っても、戦争(焼夷弾)には……。









戦後
アントニン・レーモンド
日本の再建のために力を尽くすことを誓った。  
44年間の日本滞在中400の設計に携わった。





後藤新平のことば
都市は四つの敵と闘わなければならない。
疫病・無知・貧困・無慈悲である。
その敵のうち最も害をもたらすものが
無知である。