蒼井優さんと阿部サダヲさんの演技力が凄かった
映画『彼女がその名を知らない鳥たち』
で知った作家
沼田まほかるさん
日常に潜むゾッとする瞬間。じわじわくる恐怖感。あっと言わせるラストなど、痺れました~。(全9篇)
表題の“痺れる”という作品はありません。
ネタバレ
(イヤミスが苦手な方はここまで)
《TAKO》
短大を卒業し、一年ほど会社勤めをし見合いで10歳ほど離れたサラリーマンと結婚した女性。
まぁこんなものかという結婚生活をおくって三年目。
突然別れて欲しいと夫に切り出された。別に好きな人ができたわけでもないらしい。
ひとりになって四年たち、会社帰りにふらりと映画館に入った。
途中、酒のにおいをさせた誰かが隣にすわる。
いやだなと思うが、露骨に席を移るのもためらわれ、そのままにした。
しばらくすると…
手が太ももに触れている。
痴漢だ。
声をあげるなり何かすればよかったのだが、館内の人の目がいっせいに自分に向けられると思うと身がすくんでしまった。
痴漢は調子にのってくる。
その時、小学四年の頃にみた絵を思い出す。
祖母の家に遊びにひとりで電車に乗っていた時、知らないオジサンが、「ひとりで電車に乗ってえらいねぇ」と誉めてくれた。そして降り際に「おばあちゃんには内緒だよ」と封筒を渡された。
祖母の家の最寄り駅を出て、その封筒をそっと開けてみた。
それはタコが裸の女性に絡み付いている絵だった。(おそらく葛飾北斎の春画「蛸と海女」)
怖くなって近くの川に投げすてた。
忘れていた絵を今、思い出したのだ。
映画が終わり、隣の男が立ち上がる。その腕をつかみ「わたし、来週も来るから。一番後ろの席にいるから」と咄嗟に言っていた。
男は縁の太い眼鏡、黒っぽいマフラーを鼻のあたりまで引き上げている。
それから、毎週同じ時間に映画館に行き、会うようになる。
女性は頭の中でその男のことを“タコ男”と呼ぶようになっていた。
季節がすすみ、暖かい季節になれば、ダウンジャケットやマフラーで顔を隠す事ができなくなる。もう男は来なくなるのではないか…そう思うと居ても立ってもいられない。
タコ男は、わたしをどう思っているのか?タコ男のことを知りたくなる。
映画が終わり、明るい通路を歩いていくタコ男(後ろ姿)を初めて見た。ダウンジャケットを着て中肉中背、年齢もはっきりしない。
通路の突き当たりはついたてで仕切られ、奥が洗面所になっていた。
女性は追いかけた。
奥が女性用。
物陰に隠れ、正面からタコ男の顔をみたかった。
男性用洗面所に入っていく人の顔や人数を必死に記憶した。
もう皆が出て行ってしまったと思った時、ひとりの若い男性が出て来た。
そんな男が洗面所に入るのを見た覚えはない。
その男の顔立ちがあまりに美しかったからだ。
あのマフラーの下にこんな顔が隠されていたとは!
手には紙袋を持っていたので、それに変装用の眼鏡やマフラー、ダウンジャケットを入れていたのだろう。
しかし、次の瞬間 いや、あの美しい男はタコ男でない。
まだ、中にいるはずだと男性用の入り口に滑り込んだ。
無人だった。
ということは、あの若く美しい男がそうなのか?
タコ男は所詮タコ男、ただの痴漢だと侮蔑もある。
でも、あの美しい男がそんなマネをするのには何か特殊な体験をしたとか暗い秘密があるのではないか…。
なにも映画館であんなことをせずとも、彼となら普通の付き合いが出来るはずだと思うようになる。
彼に正直に全てを話せば理解してくれるはず…。
次に男が現れたとき
「ここから出たい。どこかでちゃんと話したいの」
映画の途中、男は彼女を振り払い立ち上がってドアに向かった。
通路に出て
「待って!」と大声で呼びかけた。
男は怯んだ様子で立ち止まった。
そのときにはもう、彼女にはわかっていた。
これはあの美しい男ではない。
目の前にいるのは、元どおり、タコ男だ。
だけど、それならなぜ、洗面所は無人だったのか……。
「顔を見せて」
観念した男が、眼鏡をはずし、マフラーを緩めた。
くすんだ肌。
尖った頬骨の上のシミ。
若さを失い、生活のやつれのよどんだ孤独な顔が、居直った薄笑いを浮かべていた。
タコ男は、女だった。
おわり