ヴァン・クライバーン(Van Cliburn、1934年7月12日 - 2013年
略 歴
生まれで、本名はハーヴィー・ラヴァン・クライバーン
・ジュニア(Harvey Lavan Cliburn Jr.)。
6歳でテキサス州に家族とともに引っ越した。12歳で州の
コンクールに優勝してヒューストン交響楽団と共演した。
ロジーナ・レヴィーンに師事した後、1958年、23歳で世界的に
権威のある第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。
このコンクールは1957年10月のスプートニク1号打ち上げによる
科学技術での勝利に続く芸術面でのソビエトの優越性を
誇るために企画された。
クライバーンのチャイコフスキー協奏曲第1番とラフマニノフ
協奏曲第3番の演奏後はスタンディングオベーションが
8分間も続いた。
審査員一同は審査終了後、ニキータ・フルシチョフに向かって、
アメリカ人に優勝させてもよいか、慎重に聞いた。
フルシチョフは「彼が一番なのか?」と確認、「それならば賞を
与えよ」と答えた。
冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、
一躍アメリカの国民的英雄となる。
このコンクールに審査員として参加していたスヴャトスラフ
・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者
すべてに0点をつけた。
凱旋公演では、コンクール本選で指揮を担当したキリル
・コンドラシンを帯同させている。
この優勝を祝してヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールが
1962年より開催されている。1966年には初来日も果たした。
(コンドラシン指揮RCA交響楽団)(1958年)は全世界で
100万枚以上を売り上げ、ビルボードのポップアルバム
チャートで1位(7週連続[])を獲得した唯一の
クラシック作品である(2007年現在)。
キャッシュボックスのポップアルバムチャートでも最高2位を記録。
シンフォニー・オブ・ジ・エア )もビルボードのポップアルバム
チャートで最高10位を獲得している。
そのあとクライバーンは父とマネージャーの死をショックに
1978年から長期間のブランクに入り、8年ほど演奏する機会を
ほとんど失ってしまったものの1987年にカムバックした。
ただしピアニストの中村紘子は「その演奏はもはや正面きって
どうのこうの、といえるような対象ではありませんでした」
と論じ、「彼が芸術家として成熟することなく終わってしまった
のは、結局アメリカのこの豊かさ、楽しい生活に問題が
あったのではないか、と考えたものです」と述べた。
黒田恭一もNHK-FM「20世紀の名演奏」のクライバーン特集会で、
彼の挫折の件について番組の最後に手短に触れた。
2003年に大統領自由勲章、2004年に親善勲章(ロシア)を受章。
Van Cliburn - Tchaikovsky Piano Concerto No. 1, B-flat minor
Van Cliburn plays Rachmaninoff: Piano Concerto No 3 in D minor, Op 30
Van Cliburn "Chopin's Polonaise, Op. 53" on The Ed Sullivan Show
Van Cliburn - L.V. Beethoven Piano Concerto No. 5 "Emeperor" in Moscow