小澤征爾がブルックナーの交響曲第1番を指揮 | デジタル・コンサートホール

 

小澤 征爾(おざわ せいじ、1935年昭和10年〉9月1日 - 2024年

令和6年〉2月6日)は、日本の指揮者

 

1973年からボストン交響楽団の音楽監督を29年間務め、

2002年 - 2003年のシーズン

から2009年 - 2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場

音楽監督を務めた。

 

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、ベルリン

・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、ボストン交響楽団

桂冠音楽監督、セイジ・オザワ 松本フェスティバル総監督、

新日本フィルハーモニー交響楽団桂冠名誉指揮者 など。

人物・生涯

 

1963年満洲国奉天市(現:中華人民共和国瀋陽市)生まれ。

小澤開作歯科医師満洲国協和会創設者の一人で、

同志で満洲事変の首謀者となった板垣征四郎石原莞爾から

一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した。

 

1941年3月、父を満洲に残したまま母や兄と日本に戻り

東京都立川市の若草幼稚園に入園。

 

1942年4月、立川国民学校(現:立川市立第一小学校)に入学。

 

1945年、長兄の小澤克己(のち彫刻家になる)から

アコーディオンピアノの手ほどきを受ける。

 

才能を感じた一家は、征爾に対して本格的にピアノを

学ばせようと決意し、横浜市白楽の親類から安価に

譲ってもらったピアノをリアカーに縛りつけ、父と長兄と

次兄(小澤俊夫)とで3日かけて立川市の自宅まで運搬した。

1947年、父が友人とミシン会社を始めた関係で神奈川県足柄上郡

金田村(現:井町)に転居。

 

1948年4月、成城学園中学校に入学。当時、小田急小田原線

新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学していた。

 

中学ではラグビー部に所属する(ポジションは3番プロップ)傍ら、

豊増昇にピアノを習う。

 

当時はピアニスト志望だったが、ラグビーの試合で大怪我

(雨の試合でスクラムで右手人差し指を骨折した)

をしたためピアノの道を断念。

 

1951年成城学園高校に進んだが、齋藤秀雄の指揮教室に

入門したため、1952年、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校

音楽科へ第1期生として入学。

 

同門に秋山和慶山本直純羽仁協子、久山恵子がる。

1955年、齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学(現:桐朋学園

大学音楽学部)へ進学、1957年夏に同短期大学を卒業。

 

短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団を振り始め、

 

群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当。

 

1957年12月には、日本フィルハーモニー交響楽団の第5回定期

演奏会におけるラヴェル子供と魔法』にて、渡邉暁雄の下で

副指揮者を務める。

 

158年、「フランス政府給費留学生」の試験を受けたが不合格となる。

しかし、成城学園時代の同級生の父である水野成夫たちの援助で

渡欧資金を調達。

 

1959年2月1日から、スクーターギターとともに貨物船

単身フランスに渡る。

 

このとき、小澤というアシスタントを失うことを恐れた齋藤からは

渡欧について猛反対を受けたが、桐朋の父兄会や水野成夫たちの

支援を得て、1200ドル(約45万円)の餞別を受けた。

 

1959年パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。

 

ヨーロッパオーケストラに多数客演。

カラヤン指揮者コンクール第1位。

指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事。

 

1960年アメリカボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現:タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞。

 

指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。

 

指揮者のレナード・バーンスタインに師事。同年ニューヨーク

・フィルの来日公演に同行。カラヤン、バーンスタインとの

親交は生涯に渡り築かれた。

 

1961年NHK交響楽団(N響)の指揮者に招かれ指揮活動を開始

するが、感情的な軋轢のためN響からボイコットを受ける。

 

1964年シカゴ交響楽団(当時の指揮者はジャン・マルティノン

によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退。

 

急遽、ニューヨークにいた小澤が開催数日前に招聘され音楽監督

として音楽祭を成功に収め、小澤の名声は全米に知れ渡る。

 

シカ交響楽団とはRCAレーベル、EMIレーベルに複数の録音を残した。日本人指揮者が海外の一流オーケストラを指揮して海外の一流

レコード会社からクラシック音楽録音を海外市場向けに複数発売

したことは画期的な出来事であった。

 

1964年からはトロント交響楽団の指揮者に就任し1968年まで務める。1966年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初指揮。

 

1970年にはタングルウッド音楽祭の音楽監督に就任。

同年サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任し1976年

まで務めた。

 

新日本フィルハーモニー交響楽団を創立。小澤は指揮者として

中心的な役割を果たし、1991年に名誉芸術監督に就任、1999年

9月から桂冠名誉指揮者となっている。

1972年に日本芸術院賞を受賞している。

 

1973年、38歳のとき、前出のニューヨーク・フィルおよび

シカゴ響と共にアメリカ五大オーケストラの一つに数えられる

ボストン交響楽団の音楽監督(第13代)に就任。

 

ボストン交響楽団の音楽監督は2002年まで務めたが、一人の

指揮者が30年近くにわたり同じオーケストラの音楽監督を務めた

のは極めて珍しいことといわれる。

 

 

1984年9月、恩師である齋藤秀雄の没後10年を偲び、小澤と

秋山和慶の呼びかけにより、世界中から齋藤の門下生100名以上

が集まり、齋藤秀雄メモリアルコンサートを東京と大阪にて開催。

 

このコンサートが後のサイトウ・キネン・オーケストラ

結成のきっかけとなる。

1992年にベルリン・フィルから、楽団に功績のあった人物に

贈られるハンス・フォン・ビューロー メダルを授与された。

 

世界的指揮者の小澤征爾さん亡くなる 宇宙にオーケストラの音を届ける企画も。。。

 

小澤征爾 ベートーベン交響曲第5番「運命」

 

ドキュメンタリー『OZAWA』/ DOCUMENTARY "OZAWA" (1985)

 

小澤征爾逝去 日の丸をバイクに付けてヨーロッパを走り回っていた

 

Brahms : Symphony No.1 : Seiji Ozawa / ブラームス 交響曲第1番【小澤征爾 

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