フジコ・ヘミング(本名:ゲオルギー=ヘミング・イングリッド
・フジコ(Georgii-Hemming Ingrid Fuzjko)は、日本とヨーロッパ・アメリカで活躍するピアニストである。
父親はロシア系スウェーデン人画家・建築家のヨスタ・ゲオルギー
大月投網子(1903年 - 1995年)。俳優の大月ウルフは実弟。
歌手の橋本潮は従姪にあたる。
経歴
幼少時代
スウェーデン国籍(長らく無国籍の状態が続いた)。
幼少期に日本に移住したが、父は日本に馴染めず、家族3人を
残し一人スウェーデンに帰国してしまう。
以来、母と弟と共に東京で暮らし、5歳から母:投網子の手ほどきで
ピアノを始める。
また10歳から、父の友人であり、ドイツで母がピアノを師事した
レオニード・クロイツァーに師事する。
以後、藝大在学時を含め、長年の間クロイツァーの薫陶を受ける。
学生時代
青山学院緑岡尋常小学校(現:青山学院初等部)3年生の時に
ラジオに生出演し、天才少女と騒がれる。
1945年2月、家族と共に岡山に疎開する。同年4月、岡山県の
終戦後、青山学院高等女学部(現:青山学院中等部)に転校。
青山高女5年修了で、新制:青山学院高等部3年に進級する。
高等部在学中、17歳で、デビューコンサートを果たす。
登竜門である第22回NHK毎日コンクール
(現日本音楽コンクール)に入選をはたし、翌年には第2位に入賞、
さらに文化放送音楽賞など多数の賞を受賞した。
ハーモニー交響楽団など多数のオーケストラと共演。
かねてよりピアノ留学を望んでいたが、パスポート申請時に
無国籍であったことが発覚する。
その後、留学の機会をうかがいつつピアニストとして音楽活動を
行っていたが、1961年に、駐日ドイツ大使の助力により、
(現:ベルリン芸術大学)へ留学を果たした。
卒業後、ヨーロッパに残って各地で音楽活動を行うも、生活面では
母からのわずかな仕送りと奨学金で何とか凌いでいたという、
大変貧しく苦しい状況が長らく続いた。
フジコは「この地球上に私の居場所はどこにもない...天国に行けば
私の居場所はきっとある。」と自身に
言い聞かせていたと話している。
ヨーロッパでのピアニスト時代
バドゥラ=スコダに師事した。
また、作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナに才能を認められ、
彼のソリストとして契約した。
しかしリサイタル直前に風邪をこじらせ(貧しさで、真冬の部屋に
暖房をつけることができなかったためとしている)、
聴力を失うというアクシデントに見舞われ、やっとの思いで
掴んだ大きなチャンスを逃すという憂き目を見た。
既に16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失っていたが、
この時に左耳の聴力も失ってしまい、演奏家としての
キャリアを一時中断しなければならなくなった。
音楽学校の教師の資格を得て、以後はピアノ教師をしながら欧州各地
でコンサート活動を続ける。現在、左耳は40%回復している。
日本への帰国後
母の死後、1995年に日本へ帰国し、母校東京藝大の旧:奏楽堂などで
コンサート活動を行う。
1999年2月11日にNHKのドキュメント番組『ETV特集』
「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映されて大きな
反響を呼び、フジコブームが起こった。
その後、発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は、
発売後3ヶ月で30万枚のセールスを記録し、日本のクラシック界
では異例の大ヒットとなった。
第14回日本ゴールドディスク大賞の「クラシック・アルバム
・オブ・ザ・イヤー」他各賞を受賞した。
Ingrid Fuzjko Hemming Piano solo concert // La Campanella
Liszt: Consolation No. 3 In D Flat
Ingrid Fuzjko Hemming: Beethoven Piano Concerto No. 5 in E-flat major "
Emperor"
Chopin: Ballade No. 1 in G minor, Op. 23