徳川家康、豊臣秀吉‥
かれら天下人に騙される、翻弄される戦国武将が松本清張の歴史短編に数多く登場します。
豊臣秀吉は、人たらしと言われました。
織田信長株式会社が急成長したのも、信長自身の才能より、この秀吉という家来の功績によるところが大きいかと思われます。
もし、秀吉がいなければ、もっともっと天下統一の基礎は遅れていたでしょう。
秀吉をわかりやすく言うと、織田株式会社で、
平のサラリーマンから、社長になった人。
鞄持ちの見習いから、係長、課長、部長‥とトントン拍子に出世した人。
サル、サルと蔑まれても、ものともせず、ニコニコ笑って次から次へとチャンスをものにし、確実に出世の階段を登っていきました。
彼は人に取り入る才能がありました。
おべっか、追従、お世辞‥ワイロ(笑)
これが、彼がやると、嫌味がないのです。
おそらく、堂々と言ってのけたからだと思われます。
誰にでも通じたわけではないですが、信長も家康も明智も、丹羽長秀も、そんなに悪い気はしなかったようです。女性の扱いも同じこと。
彼は自分の奇妙な顔を最大限に利用して、人の警戒を解いていったようです。
むろん、ハッタリと追従と調子のよさだけで天下人に登りつめたわけではありません。危険な役目もこなし、ここぞという時は的確な判断もしています。
徳川家康には普代の家来がいて、三河武士、三河軍団と呼ばれてきました。
とにかく、強いのはもちろん、忠義心に厚いのです。
賎ヶ岳の戦いで宿敵・柴田勝家を滅ぼしてからは、秀吉と家康の間で緊張状態が起きました。
その頃の家康の家来に、石川数正がいます。
数正はその家来の中でも、一番強く、忠義心の厚い家来でした。
じゃじゃ〜ん!
その石川数正に、秀吉の魔の手が伸びるのであります。
「家康の家来でなかったら、力づくでわが家中に引っ張ってくるものを」と、何かの席で、本人を前にして、そんなお世辞を堂々と秀吉は言うのです。
「あー、家康どのが羨ましい!」
石川数正は悪い気はしませんでした。
お世辞だとはわかっていましたので、すぐにその言葉でどうこうはなりませんが、石川数正は、家康と秀吉の違いを、なんとなく推量します。
数正は、秀吉の世辞を鵜呑みにはしませんが、どこかで、それは当然、という自負があったようです。自分はそれに相当する武将だと。
三河軍団のエースであると。
その自負こそがキケンなのでありました。
そのワナにかかる話が「群疑」であります。
「奥羽の二人」など、歴史短編集に収めらています。