心が通うと嬉しいのはなぜか。 | 富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)

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身辺雑記。

今朝はだいぶ楽になりました。顔のむくみ、腫れがひいて、静かな自分の顔になってきました。  


「節子、なにが食べたい」
「うんとねぇ…てんぷらでしょ、おつくり……それに………」
「どろっぷ、たべたい」

ジブリの「火垂るの墓」で清太と節子の、そんなやり取りがあったなぁ、と記憶する。

私もその時、無性に揚げ物が食べたかった。思い出して思わず、農家さんにいただいた玉ねぎを気持ち多めの菜種油で揚げ炒めにしていただいた。めっぽう美味しい。久しく外食をしてなくて、したがって天ぷらや揚げ物を食べていなかった。

鰹のたたきも、すっと体に入っていく。関西育ちの私は大好物だったのだが富山ではあまり見ない。むろやんは食べたことがない。そこを買ってもらった。10年ぶりかで体の慣れ親しんだ食べ物を食べる。

体を作った食べ物は、魂と切り離せない。「ソウルフード」の言葉の重みを思う。

それにしても節子の食べたかった三点、見事に、シンプルに、こういう状況で体が必要とする食べ物を指し示してくださってたのだな、と。
脂質、酵素、糖分。

マクロビオティック的にはあまりよくないとされる。健康な時なら食べてもいいけど、と。揚げ物は消化しにくい。生ものは重病人にはきつすぎるから避ける。大きい魚ではなく、川魚、小魚。血糖値をすぐ上げる白砂糖はよくない。

でもやはり、私の体はこれによって助けられた。

とてもマクロビオティック、食事の指導ということは人様には怖くてできるものではない、といよいよ思う。

マクロで助けてほしい、と頼まれるまでは本人をマクロの知識で助けようとしてはならない、と教えられたのはこのこと。

節子は、栄養失調というより、有害物質を体内に取り込んだことで体を侵されたらしい。

小説家の分析した節子の死因。

どちらにしても死の淵に、髪の毛、全身の毛を総毛立たせて私も立っていた。



手話で「神社」はこうなる。この合わせた形はきっちり、45度になってよほど不自然にしない限りは誰でも45度になる。しかもおそらく、指同士の触れるところはツボになっている。

先に紹介したおろされた印も、神明造りの神社の千木、鰹木に同じだな、と。



千木・鰹木Wikipedia

薬指、小指が鰹木。中指、人差し指が千木になる。親指もまたどこかに該当するだろう。

耳が聞こえなくて話が分からない者にも目で見て通じるように仕組んである摂理。

「鳥居」の手話も、知らないで鳥居の形をなぞったであろうに、見事に中指、人差し指、親指を立てて2アクションの気持ちのよい動きになっています。




二、三日の間、体はあっという間にまた谷底に落ちて賢くなってまた蘇る、を繰り返した。よくなっているのか悪くなっているのか判らぬまま、でも確かに息を吹きかえした。

肉体に、魂が戻ってくる。体の輪郭にそって、魂がじわ、じわ満ちてくる。

昨日の夕刻に水やりをしている時、Kちゃんが私に落ちた雛の話をした。こちらの方が話をうまく受け取りそこね、最後の水撒きが終わりかける頃、もう一度Kちゃんはその話をし、でも聞き取れない私は自転車で誘導するKちゃんのあとを思うように動かない体で追った。

アスファルトの上に、まだ毛のはえていない5センチばかりの雛が息絶えていた。

このことを、私に伝えたかったのか。そっと拾い上げて掌の中に納める。どんなにか苦しかったろう。この体の苦しさを、私はよく知る身となった。

「お墓、つくらなきゃ。」「どこに埋めよう」私が独り言を言うと、「こっちーっ」とKちゃんがいざなう。うーん、そこはお隣のおうちだからね。Kちゃんのお庭は?

かぶりを振るので、じゃあうちの庭にしようか、となった。

スコップ。二人ともスコップを2つ一つ持って再び集まった。

しっとりした、生命力のある場所を選んで二人で穴を掘る。そっと雛を置いて土を乗せた。Kちゃんはスコップの背でペンペンした。

Kちゃん、さあ終わった、とばかりにそのまま去ろうとする。待て待て待て。ここから。お祈り、しなきゃ。

二人、手を合わせてお祈りした。私が言葉を呟いたが、久しぶりなのと体がきついので頭回らなくて、神道とお寺とキリスト教がミックス調になり、しかも最後つい「アーメン。」と締めてしまった。まあ今の私には仕方ない。いいか。完璧ではなかったけど、豪勢だ。気持ちは伝わった。

干からびる雛の恐怖と体の苦しさを少しでも癒せる機会を、Kちゃんがくださった。雛の苦しさは、私の苦しさでもある。

Kちゃんが私を、成仏させてくれる人と見込んでくれたことも嬉しい、諦めずに最後まで私に伝えよう、としてくれたことも。

人生で何が嬉しいかというと、人と気持ちが通じるのが一番の幸せだと思う。聞こえない身だとなおさらそう感じます。

気持ちが通じるのがその時、ではなく少しのラグは生じる。それが20年後であっても、一万年後であっても、私は確かに受けとる。

Kちゃんの中の魂、優しさ、仏性。

心繋がる。魂繋がる。心伝わる。通じる。通う。


八尾接骨院でクオンタムを当てていただくと、今日は割と元気だ……と思っていたのがまた胸の奥の黒い鉛の弾丸の塊を顕在化する。そしてそのまま抜けてゆく。サイダーを飲んだように体の中が酸素行きわたる。高い波動で細胞の中のミトコンドリアを活性化させるもの、らしいです。

供養しながら国を回る円空さんや、火の鳥の羽根でもののけを癒す、時空間に永遠に存在し続ける八百比丘尼(はっぴゃくびくに)が心をよぎった。クオンタムの心は私に通じている。


帰宅してからふと見ると、廊下のホコリと見えたのが、ホコリにまみれたカナヘビ(トカゲみたいなの)だった。

うちの猫が申し訳ないことに、もてあそんだ後らしく、しっぽが千切れてそこにもホコリ。干からびて息絶え絶え。ちょっと前の私だ。治療を受けてやっと少し元気取り戻したばかりの私の掌に乗せ、体を湿らせたり貝殻で水を飲ませたりして介抱した。私のエネルギーが枯れても、この命を救う方が大事だ。

一つ、一つ、息をする肺の膨らみを確かめる。

少しずつ生気を取り戻していく。何回も口を大きく不規則に開けた。気高く、首をふん、と持ち上げた。降りるかと言ったら降りない、と。目をうっとり瞑る。しばし腕につかまらせたままに花鉢を整えたりした。

干からびて死ぬのではなく、諦めかけていた水と外の空気、緑をこの命に見せてあげられてよかった。掌の温もりを分け与えられて、よかった。

飲み込みかけている口の周りのホコリもとってやり、花を見せ、葉っぱを見せ……。思いきって尻尾の切り口にこびりついたホコリも十分湿してから取ってやった。

1時間しないうちに、かりかりに干からびかけた状態から、弾力ある命の塊に甦った。

あとどのくらい生きられる命かは分からないけど、助けてあげられて、よかった。爬虫類は初めてだった。相手に心通うのが、生命の元。生きる源。

浄福。

命は、巡る。あと数刻かもしれないカナヘビの命や潰えた雛の命、100年前の文学の命、ナイアガラ大瀑布のように轟かせながら静かに巡っているただ中、愛がバトンタッチされているのを確認するのが、

確認すると嬉しくなるように仕組まれていて、命は巡る。