「おどりは光」。星。 | 富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)

富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)

富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)
身辺雑記。

昨夜、とても苦しかった。夕方に急に微熱が出て、それはまもなくおさまったのですが、夜、煩悶しました。気持ちが、苦しい。

いても立っても苦しい中、ふと目に留まりましたのが「NHK日本の伝統芸能」のテキスト。2002年のものです。
 

表紙の日舞の女形の、髪と着物の黒さに惹きよせられ、さらにその姿形の美しさに惹き付けられ。

永平寺のお香も我慢できず途中で折って、ヨガも呼吸法も薬も効かない中、その表紙の女形を見ているだけで脳がすーっと安らいだ。何回も、何回も見た。不思議に休まる。

少しずつ中を拾い読み。やっと、この歳になって内容が腑に落ちてきました。

中でも日本舞踊他、多彩に活躍しておられるの村尚也さんの「踊ってスイッチ・オン!そして祈る―御祝儀舞踊と詞章のことば―」の内容が。闇夜で旧友に会ったような心地がしました。

結構昔のものなのに、精神世界的なことも書いてある。

御祝儀舞踊、素踊りですね。この頃私は地唄舞と仕舞をやっていたので、だいたいこれのこと。「松の緑」、「青海波(せいがいは)」とか。

めでたい、めでたい、祝す………と。

以降、ところどころ要約抜粋交えつつ紹介させていただきます。

結婚式披露宴で、祝宴のスピーチだとか、私の祖母はよく「高砂」を舞ったりしていた。祝言。

一度発した言葉は永遠に残る。私たちの耳では関知できなくなるほどの微粒な波動になっただけである。波一つなく静まった水面に、小石一つを入れただけで波を生じる。それは、もともと目に見えない波が水面にあったから。

私たちが発し終わった言葉もこの静かな水面と同じで、空気をいつまでも微小に振動させ続けているのだ。

ここにひと度、小石が投ぜれれるば、再び言葉は大きな波を起こす。凍った水面には波は起きない。

胎教として胎児の段階での音や言葉への影響を知っているのになぜ、成長後の言葉にはそれほど気を遣わないのか。

音も言葉も波動であり、その波は決してゼロにはならない事実を知れば、迂闊な言葉を発せられない。

祝言は、めでたい言葉を微粒子・種として、この世に蒔く行為である。それでは、それを踊ることにどんな意味があるのか?

夜空の星。あれは何十年も前に発せられた光だ、ということ。光は微粒子だが、何十年も前の光を今、地球上で感受するという時間的落差。とすると発せられた光もまた、何十年の間、宇宙空間に存在していた証明であり、距離が遠ければその分、微弱になっても光はさらに長時間存在し続けたことになる。

おどりは光である。人々の目に写った、踊りの映像はじつは人の記憶に残ると同時に、光の微粒子として、この世に発せられる。星の光も強いほどまたたきを増す(空間のチリに遮られることで)ように、おどりも強い力で発せられたものほど、影像の微粒子が克明に残存する。

ここでいう強さとは、自己主張の我の力ではない。
 
祝言というのは単にめでたしめでたし、ハッピーエンド、だから昔の人は単純だった、訳ではない。

現在はスマホなどがあるが、昔の人は人間と宇宙との交信を、「祝言」や「祈り」によって行っていた。

今ではぽち、で、すぐYouTubeの映像が見られるけど、昔は家族の平安、自身の幸福は、体を動かし、歩き、祈ることによって獲得した。一時の享楽とは異なる幸福を。

翁が天下太平をことほぎ、三番叟(さんばそう)が五穀豊穣の種を蒔く。祝儀舞踊は唄と音楽、踊りの光によって幸福の微粒子を人々に浴びせかける。演劇的な興奮とは違った「予祝」の喜び。

ラジオ内の振動数を合わせれば空間に発せられた局からの振動数が拾えるように、予祝された喜びによってその喜びを招来していた。

それなのにその知恵を理解しなくなった現在、芸能より演劇を、演劇よりホームドラマを好むようになってしまった。

芸能の最大の使命、目的は「祝言」である。

おどりは歩みであり、身体運動である。体を動かすことによって電源がスイッチ・オンする。そこで踊られる内容がどんなものであれ、祈りが込められていれば宇宙との回路は開くのだ。

おどりは人間の行為の中でもっとも強い光源となり得る。踊って祈る。踊りを視る人々もその感銘によってスイッチが入る。そして祈る。世界の平和を祈ることもできる。

おどりはもっとも強い光を発する芸能だから。


以上、結構自分の言葉にしてしまったところがありますが。

昨日のブログで黒から光、までたぐったところで夜、この文章にたどり着きました。

女形の黒の要素に引き寄せられて。

この「狂女」のような心地の闇の中で、おどりは光、と出会った。



その前のページの玄侑宗久の文には世阿弥の「花鏡」のことが書いてあって。

「なすわざ」ばかりでなく、「せぬひま」こそ面白いという。

為すわざばかり磨いても、それとは全く別な心根が「せぬひま」にのぞいてしまったのでは興ざめてしまう。それを世阿弥は「操りの糸の見えんがごとし」と表現する。「為すわざ」のみでよしではなく、人間的熟成までも求められている。  

稽古をしているばかりではなく。しない「間」こそ大事。今が、そうか。

それこそ熟成の時間。

蝉丸さんや他の方の小さな動きが、20年を超えて今、届く。あれは星の光であったのか。

たくさんのチリを隔てるごとにさらに美しく輝いて、今になって私の胸に届いた。

強いおどりというのは、そういうものなのだ。
おどりは、光。星。思いを改めて確認しました。