内なる自分と歩むことが、舞うということ。 | 富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)

富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)

富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)
身辺雑記。

近所のKちゃんとのコラボ作品です。睡蓮鉢に花を浮かべました。


最近、うちの猫目当てにKちゃんが庭に遊びにきます。こちらも庭作業しつつ、のんびり相手してる。でも体調が悪い時は出られない。幼い子にはそれが分からない。田舎なので他に小さい子どもはいなくて、猫と遊ぶのを心待ちにしているのに。

夜7時頃だったか、夕食を済まして、この時期まだ明るいのでふと開けっ放しにしてある玄関を見ると、赤い花が点々と。玄関から道路へ、おびきだすように置いてありました。努力した跡が。

ツツジの花の色違いのが、4つ。きっと、猫のために探して摘んできてくれたんだろう、でも渡せなかった。

前にその子が、「(玄関に)猫飲む水を置いたらいいと思う」と言ってくれて、その時は聞き流したんだけど、そうだ。

私は空の睡蓮鉢を洗って水をはり、通じますように、と念じながらその花を浮かべました。


前に、私にこうやってくださった方おられた。少し喧嘩みたいになったのが、朝見たら玄関の鉢に、黄色の蝋梅の花を沢山浮かべてあった。千利休の生まれ変わりという方で、さすが、風雅なことをされた、とその時は思ったが、その人のお心持が今なら分かる。言葉ではもう、壊れるから。精一杯、伝えてくれるのが、お花だったこと。

それと前に竹富島に行った時、お店の玄関にこんな風にしつらえてあるのを見ました。

郵便受けの下に、この鉢は置いてあります。かねて「ありがとうございます」と何かテープでも貼ろうかと思っていましたが、言葉は不粋になります。花でしか、持ち得ないその力。花は愛の形。

今日はさらにこんな風に。


そしてこう。


よっぽど、うちには花の要素が足りなく見えるのかな。男性の私に、女性の視点をくれるようです。アルプスの少女ハイジと、私がおんじのようでもある。

さらに小さな溝の流れに、石を置いて水を汲みやすくしてあった。


隣のおっちゃんがしてくださったのかと思ってお礼を言いに行くと、Kちゃん「わたしがした。」と。みてたら、こうしたらいいのにとおもって、ここの石を、もってったの。うわ。お姉ちゃんより、賢いー!うちの庭の縁石にしてた石を。

でも、私のやっていることを、見ていてくれたんだ。

後で気づかれないよう、そっと別の所から石を運んでおさめておきました。小さくても、富山の石は特別らしくて重いのですが、弱っている私には一層重い。こんな重いものを運ぶキモチって。


昨日、テレビで王室の結婚式拝見しました。国境超えてて見てて気持ちよかったですね。日本も昔は県同士が戦ってたのですもの。そのうちに国が、県みたいになりますよ。スポーツでも文学でも、国籍曖昧になっていますしね。

ゴスペルの指揮者の黒人「女性」が、白髪を芸術的に編み込んでいたのも、いろんなジャンルを肯定するような。


王子の和らいだほほ笑み、司教の熱あるスピーチ、


祝福する多国籍の人々。



脳が興奮しているのでごちゃごちゃしたものがダメになって、9年ぶりだかに自室(といっても襖も取っ払っていてプライベートはない)を模様替えしました。さすがに白山長滝神社みたいな雰囲気になった。でも、焚いているのは永平寺のお香。神道、キリスト教、ごっちゃ混ぜ。インドの神様の像もマリア像もあちこちに。でも、そこはいい。求めるものは一つだと思うし。それぞれの違いを楽しむ余裕が心にあります。排斥するのでなくて。

上と、相談しつつ。上は、神様、とも宇宙、とも。だから、結果として神様、仏様、キリストごっちゃ混ぜでよい。いってみればこの部屋は地球上の体現で。


体の方。状態の悪さはあっても内容が変化しています。三歩進んで二歩さがる。今日はやっとコンディションが戻ってきた感じ。朝からたんわり、のどかな気持ちでいます。やっと8時間眠れた。園芸店の店員さん二人とも、初対面なのにふわぁ、と喋りかけてくださった。


18、19、20日とひどかったな。

読むのがしんどくなるかもしれないですが、そういう方はそこだけスルーされていいですよ。

18日。むろやんの言動で怒りがわく。体も口も動かないので苛立ちが増し、むろやんを攻撃。

19日からは心臓のドキドキが加わり、ショッピングセンターを歩くことができなかった。胸を押さえてゆっくり、ゆっくり歩く。自分のヨロヨロの字が読めない、同じ内容のメモを書く、レジでカートに精算済んだ買い物かごを乗せてもらうのに、空っぽのカートを移動させようとする……。

昨日20日は朝と昼の薬を飲めなかったせいもあると思うのですが、心臓バクバク。体の内側ゾワゾワ。

胸を押さえてスーパーで買い物をする私をめんどくさそうに見やって、むろやん「めっとくない(富山弁かむろやん言葉。みっともない、の意)」腹が立って抗弁しようにも、力が入らぬ。

コンビニで水を買おうとしたら途中で別の用事をしたついで、未精算の水のペットボトルを、かばんに入れてしまった。万引きに間違えられなくてよかった。

家に帰る途中の車で苦しさのあまり、2回降りる。田舎の道だからアスファルトであっても揺れが激しい。

車停めてもらって崩れ降りて、アスファルトの地面に倒れる。私、このまま死ぬのかもしれない。たとい救急車で運ばれてもいかんともしがたい絶望感。

もし、自分が死ぬのなら、体の周りに花を置いてほしい。初期の人類もそうしたように、今でもご遺体の周りは花でうめつくされる。やはり、花なのだ。花にしか、その役はできない。無私で咲いている存在が。

花であるような、踊り。


雑草の生えている空き地に移動したら、心が鎮まった。自然の中に身を置くのが一番、心身が安らぐ。

むろやんに頼んで、松の枝を採ってきてもらう。松の枝をこちらにもってくるむろやんの姿を見てて、あ、神様がお供え物持ってきてもらうような感じだわ、と思う。

でも。頭と体の一致しなさはなくなってきた。頭、前と違う明晰さになった。

耳鳴りも、とんでもない音になったと思ったら左耳に移り、今度は右耳で違う音になり、気にならない程のシンシンシン………という音になったり、耳鳴り忘れていたり。

今日は離れていた体が、やっと自分のものになった感じ。体の違和感が少ない。

あれこれ調べてみるに、

要するに低血糖にもなってたみたい。悩むことで頭を使った。耳鳴りも神経を消耗するので、いつも以上に食べなくてはならないところだった。

ショックで食べられなかった時期を過ぎたのに、夕食のご飯を控えめにしていたり。耳鳴りを治そうと血液をきれいにするような食事をしていたり。

長期間のストレスで、それに対抗するコルチゾールが大量に分泌されていたのが、もう疲れてしまい、機能が低下した。それで低血糖になった。のもある。

それまでの慣習通り、控えておこうという恣意がちらっと入ったから。自分の心を無意識に圧し殺してしまっていた。

今はとにかく、考えなくていいから食べられるものを食べて。副腎の疲弊している時は極端な糖質制限をしない。特にお米のご飯を、しっかり食べて。断食で治すというのは、今の「私の」場合、あてはまらない。

こういう状態には今まで4回ぐらいなったことがある。永平寺に入りたての雲水も、こんな感じなのか。重度の睡眠不足と栄養不足で。もしかしたら特養老人ホームの方々も、かんなだったかもしれない。

自分の心に聞くこと。自分が変わったので、部屋も変わった。それも内面の宇宙に一つ一つ、聞きながら。


近所の女の子Kちゃんに教わることも多いのだけど、Kちゃん、猫に接するのにばたばたばたっと走って追い回す。うりうりとキャットニップ(猫ハーブ)をやり続けようとする。猫が辛抱してつきあってくれてるのだけど、いつまでも紐で遊ばせようとする。

その猫なり、あるいは赤ちゃんや子ども植物、動物、虫でも言えることですが、対象とする心にまず呼吸、波長を合わせないと通じあわない。それには、まずこちらをゆっくりする。こちらが停止して、相手の呼吸に耳を澄ます。

それをまだ知らないんだな、と。

一度、説明してみたけど分からないみたいで。「ごめん、お姉ちゃん(←!)、耳聞こえないから聞き取れないの。」と言っても、そのこと理解できないみたい。な、「年」のようなので、するがままにさせている。

自分から学ぶしか。


そして、私も自分の呼吸に合わせていなかったかもしれない。

轟音の耳鳴りを治そうとあれこれ今までやってきた。

ソロの舞踏家になったのも。
クリスチャンになったのも。
マクロビオティックの学校に入ったのも。
山梨の酵素風呂の施設の住み込みスタッフになったのも。
二胡を始めたのも。
ヨガを始めたのも。
わの舞続けたのも。
あちこち遠いところに行ったことも。
特養の清掃の仕事に一時就いたのも。
あれも、これも。


K尽くしになりますが、舞踏の師匠の一人がKさんという。その元を離れようとした時「今までの人生、逃げてきたのではないか」と言われた。

えっ、とその時は思った。正々堂々と歩んできたつもりなのに、心外なこと。

でも、恐怖を内に抱えての行動は、表にも顕れたと思います。

確かに私は「逃げて」いた。でもそれを悪しきこととはしない。

それはよく言えば一生懸命の努力であった、誠実であろうとしてた。結果、自分を拓くものでもあった。その体験が私を在らしめた。

火にかけられた鉄板の上でじっとしていられないように。本来のドイツ民話の真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされて「踊らされた」白雪姫の王妃のようなものではあったけれども。

メキシコの女性画家、フリーダ・カーロ(→Wikipedia)も、痛みに苛まされる生涯だった、痛みから逃れるよすがとして絵を描いた。

彼女は、今の私の年で亡くなっている。

そうせずにはいられなかった。



今は。そうではない、苦しい今の状態を、呼吸一つで、変えていくことを知った。

轟音の耳鳴りが鳴っていても、意識をそこに置かない技。静かな動とは、これか。

泰然としておれるように。体を脱力できるように。心頭滅却すれば火もまた涼し、のような。40余年、修行しているようなものだ。苦行は宇宙に繋がるのに必然ではないけど。

私に与えられたのはイバラの道ではなく。愛に溢れたバラの道を歩くことを私には許されて、ある。他の人には有り得ない道を許された、それが、「有り難い」、ということ。


呼吸をゆっくりとして、まわりの空気空間と調和させて、お風呂を洗う、諸事をする。

これがすなわち、命を踊るということ。

舞うとは本当はそういうこと。

誤解されがちなところですが、それはけして空気を読む、ということではない。

狭い人間関係の場や空気に合わせるのではない。日本人が得意とすることではあるけど、はきちがえてはいけない。それで必要以上に病んでしまう人の多いこと。
 
もっと大きなものに。内なる自分と、宇宙と。宇宙=、内なる自分。頭で考える自分ではないこと。

頭で考える自分がある、と意識して、内なる自分=宇宙と波長、歩みを合わせること。

追記:もう一人、私淑していた舞踏家がおられて、前に教わったことなのですが、今になって魂に届きました。20年前のことが。

二人ペアで、気配を感じて動く。一方は任意に動くけど、相手には触らない。触らないけど、相手を動かすように、動く。もう一方はその気持ちを感じて動く。決してお互い触ることはないけど、気持ちよいし、いつまでも無限に動いていけるのです。

今で言えば、エネルギーが循環しているようになる。

これは、自分と耳鳴りにも、応用できるということ。
これが、自分と、空間、宇宙と踊るということ。