試される、わの舞。 | 富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)

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身辺雑記。

明けまして、おめでとうございます。皆さまにおかれましても、よいお年になりますように。

去年は思いもかけず盛りだくさん、充実のわの舞の一年だったので、これ以上の幸せな一年ってあるんだろうか、と思います。でも、雲行きも怪しい……。

先に正月早々の4日、相模原の講習で千賀先生とかまちゃんの対談、がありました。

ちょっと波乱、の年明けになった。わの舞の曲がり角にきているような気がする。

けれど、昨日の長岡京での、かまちゃんわの舞講習、龍神の舞。

今年初めて会うかまちゃんは、いつもより、ほっこりと、じんわり優しい。

少しも、ぶれてない。

同時に、みんなへの慈しみも感じる。

その安心感に包まれての講習になりました。

電車事故でかまちゃんの会場到着が遅れたので、主催のいりちゃんが準備運動をナビゲートしてくださいました。

それが、ほとんど声を発しない。気配、最小限の小さなかすかないりちゃんの声だけで、みんな動くのです。
通底にある関西メンバーの、繋がりの強さも、わの舞のきれいな純度の高い姿も、見ました。それはもう、静かに身震いするほどの、人間の美しさ。

そして、龍神の舞。
水の神様。瀬織津姫。

己を水のように低く、低くどこまでも低くして、中心に捧げきった後でなければ後半の動きはできない。捧げきった後で入る、天与の体の動き。

自分の力業の動きではない。

水は、一番低いところに流れて、それでいながら、それ故、岩をも穿つ強さを持つ。

今、自分の抱えている人間関係の問題は、どこまでも己を低うする、いかに、どこまでも柔らかく対せるかで解決できそうだな、と、思いました。

6つくらい解決を迫られた問題、年末から3週間と長引く風邪。あまりのしんどさに、時折パニックになって布団から飛び出して冷たい空気の中、立ち尽くすようなの2回ほど。

髪の毛も、今3センチほどですが、髪の毛がないというのは思う以上に心身にこたえ、さらに切りたくなったり。気が狂いそうになったり、死にたくなったり。

わの舞ではウィッグをかぶって踊って、仕事では上司にお願いして、三角巾をつけて作業させていただいてます。

加えて、自分の姿が分からない。

桜島講習での体験の後、自分が、自分でない。

外見が、定まらない。

鏡を見ても、それは他の人。

飛躍の予感です。

わの舞は、少なくともかまちゃんのものの見方を身に付けるまでは、踏ん張ろう、と気持ちを落ち着けました。

かまちゃんは、去年のことは忘れて、ゼロから、と。

昨年暮れからわの舞に参加してくださるようになったRさん。

もう、講習で涙を流しっぱなしです。かまちゃんの波動の高さに、なんて温かいのだろう!と感激してらっしゃいました。
かまちゃんのよさが分かる方が増えて嬉しいです。

そのRさんと帰り一緒になって、あゆみの舞の話をしたところ、彼女が教えてくださいました。

命が生まれるのは霊界からやってきて、大地の神様が許可を出して、母体に入るのだ、と。

それまでなんとなく、大地、ね、地球ね、ととらえていたのですが、わの舞始めてまだ数回の彼女に教えられました。

宇宙から魂がダイレクトにそのまま降りてくるのではない。一旦、大地、地球の核までいってから、そして、大地から生まれてくるのだ、と。

あゆみの舞で、一旦大地に散って、それはどこまでも深く。命、エネルギーは地球の核までいって、そこから宇宙、霊界まで、そして再び地球の大地の神様を通って、この世に生まれてくるのだと。

かかとの角度で大地からエネルギーをいただくことも、彼女はなんなく理解されました。

ああ、本当に、タイミングのあった方に、わの舞は届くんだ……。この局面に、ようこそ、おいでくださった。

今の千賀先生の姿からも、学ぶことがあるはずで。

ジャッジすると、それは「分離」になる。それを、いかにしないでいるか。

そういう意味で、かなり試される、スリリングなわの舞の内輪状況になっているような。

どんな団体でも、起こることだろうと思う。この局面を、それこそ淡々と、和やかに、かつ研ぎ澄まして舞うことが、「わの舞」の証明になる。かなり、高度です。


わの舞を、ここでやめることもできる。でも、ヨガも、フラダンスも、エイサーも、八尾のおわらも、郡上踊りも。様々な食養生も、もはや私の中ではわの舞以上のものはない。

ここで例えば苦しい気持ちを紛らわせるためにおわら保存協会に入ったとしても、
精神的な何かを学ぶ機会から逃げてしまうことになると思う。

せっかく、人に向けてパフォーマンスするのではない踊り、に向かったのに。

後戻りしてしまうことになる。

白か黒かに決めてしまうのではなく、グレーの状態にして、その苦しい状況の中でも続けた末の、何かを私は見届けたい。そういう中に、あえて身を置きたい。

私には分からないけれど、かまちゃんがそのような状況でも、淡々と続けておられるから。「分からないけれど」、がポイントで。

そういう、年が、明けました。
「空けまして」、おめでとう。