学生時代の友人から、手紙が来た。

年賀状に会いたいと書いてきたのに、

今は会うエネルギーがないから、少し待って欲しいと手紙を返したところ、

それに対する封書が届いた。

 

届いて数日がたっているが、

まだ、開封できていない。

 

何が書かれているのか、怖い。

 

断酒して、飲酒を伴う交流を避けていることもあり、

人とのつながりを、実質どんどん切っている。

ひとり暮らしの状況を人からどうこう言われるのも、知られることさえ面倒くさく、

誰にも会いたくない気持ちが強い。

 

 

もはや、人生、行き詰まりの感じ。

 

だけどもし、これまでに願ったことや目指したことがすべて叶っていたら、どうだっただろうとも考える。

親に叱られたくない、褒められたい。

お菓子でもおもちゃでも欲しいものは全部買ってもらえて、

水泳でオリンピックに出場してヒーローになり、

好きだと思った人とはすぐに仲良くなれて、

受験も願ったとおりに合格、願ったところに就職できて、

・・・もうこの辺で、どうでもよくなってしまう。

 

ぜんぶ叶っていたとしても、結局は今と同じ、

どん詰まりだったと思う。

 

大した願いも目標も持っていなかったから。

それがいちばん問題だ。

すべて叶ったって、せいぜい、

世間で成功するような方向にしか行きようがない。

 

映画『市民ケーン』の"Rose Bud"だ。

その、バラのつぼみが描かれた橇の悲しみ。

誰にもわかってもらえることなく焼かれて消える悲しみだ。

ケーンの人生の意味は、新聞王として大富豪になりあがった物語にあるのではない。

成功の陰に埋もれた人生の悲しみ、

それが彼の人生だと言っている。

私はこのすばらしい映画を、そう思って見た。

 

そういう体験をしない限り、

長生きしても世間でいくら活躍できても、

私は結局どん詰まりになっただろうし、

そういう体験とは、

つまりどん詰まりの体験だ。

 

だから結局何回やっても、

今と同じになったと思う。

どん詰まりは、そういう体験だから、

悪いことではない。

 

 

きょうはチームの練習会で泳いだ。

打破できないどん詰まりの中、

適度な距離を置いてくれる仲間と泳ぐことは、

世間の広がりでも成功でもなく、

人生の深みへ掘り下げられる道だ。