08 今や90代以降が後期高齢者?

 

 かつて『負け犬の遠吠え』がベストセラーとなったエッセイストの酒井順子さんは、著書『老いを読む 老いを書く』(講談社現代新書)の中で団塊の世代について、ーー「本人に『おじいさん』『おばあさん』の自覚はないが年齢的にはトシヨリという、

新しい高齢者の登場を感じさせる」と書いています。

 

 団塊世代の一人であるわたしも、まさしく「年齢的にはトシヨリ」ですが、確かに「おじいさん」という自覚はありません。その団塊世代の人々について酒井さんは、「新しい高齢者の登場をかんじさせる」といっていますがどういう意味なのか?

 

 酒井さんは昔の高齢者と今や高齢者となった団塊世代の人々を比較しこう述べて

います。

 ーーー「高齢になっても、おじいさん、おばあさんの自覚を持たなかった人は、

昔からいたのだとは思う。しかし昔の人々は、いつまでも若さの残滓(ざんし)を

心中に残していることを恥としていた気がしてならない。

 

 昔の人々は、おじいさん、おばあさんの年になったら、あえて老人感を強く

押し出していた。その年齢らしさ、男らしさ、女らしさといったものを遵守すべき

だった時代の六十代は、本当は思っていたとしても、『私、まだ若者のつもりで

いるんですよね』とは言えなかったのではないか。

 

 しかし敗戦で全ての価値観ががらりと変わった時代に育った団塊の世代は、

男らしさ、女らしさといった『らしさ』を軽視するように。同じように、年をとってもその年齢らしさに違和感を持っていることをさらっと口にできる軽み、というよりは正直さを身につけることとなった」ーーー。

 

 そこにあるような、昔の高齢者が、ーーー「いつまでも若さの残滓を心中に残していることを恥としていた気がしてならない」とか、「あえて老人感を押し出していた」とか、「私、まだ若者のつもりでいるんですよね」とは言えなかったのではないか。ーーーといったことは、率直にいうと、酒井さんの推量という感は否めません。

 

 しかし、昔の高齢者においては、確かに、推量に基づくそうした面はありうる

ことかもしれないと思わされるのもあながち否定はできません。

 

 それはともかくとして、団塊世代の人々を、「新しい高齢者の登場」と

いっている酒井さんですが、実は高齢者の入り口となる年ごろの60代に関して、

 彼女は次のように述べています。

 

 「平均寿命が延びた今となっては、もう六十代を高齢者とするのは、時代に

合っていない気もする。七十代になっても、高齢者感が漂う人は少数派。七十代が

前期高齢者、八十代が中期高齢者、そして九十代以降を後期高齢者とするのが、

実際の感覚に合った呼び方ではないか」ーーー。

 

 1966年生まれの酒井さんの感覚ではそういうことだそうです。

 

 あなたはどう思われますか?

 

 09 老いなんていうものは存在しない?

 

 「わたしは後期高齢者になった」ーー

 「あまり老人という自覚がない」ーー

 「ことし77歳の自分を老人と思わないわたしは変人か?」ーー―

 「何歳から『老後』なのか?」ーー

 「高齢にもかかわらずわたしが老人と思わないワケ」ーー

 「かつての70代とはちがういまの70代」ーー

 「団塊世代の老い感覚」ーー

 「今や90代以降が後期高齢者?」ーー

 

 人口の高齢化が進むなか自分自身が後期高齢者になったのを糸口にして、

「老い」をめぐって、上にあげたようなことをポツリポツリと述べてきました。

 

 わたしが今年で77歳になるのに「老人の自覚がない」というのをお読みになられ

た方のなかにはもしかしたら、「認知のほうは大丈夫なのか?」と気になる方もおられるかもしれません(笑)。ただいずれにしても、何歳からが「老人」なのか?

 

 あるいは「老後」なのか? といった問題は人生の一大事といったことではない

にしろ、多くの人が少なからず関心のあることのように思われます。

 

   そうした中で、その「老い」や「老後」について、

ーーー、ギョっとする考え方をなさる方もいます。        

 

 まず、『バカの壁』(新潮新書)などで知られる医学博士の養老孟子さんです。

 1937年生まれの養老さんは今年89歳になられますが、65歳のころに、

「老い」に対する考えや対処方法などを語ったNHKの教養番組で次のような趣旨の

ことを話していました。『男が語る人生これからー「老い」をよりよく生きる14の話』

 NHK教養番組[編】アスキー・コミュニケーションズ]より

 

 ーーー何歳から老いは始まるかということで言えば、そもそも老いなんていうものは存在しない。人の一生は自然のできごと。誰かが設計して、契約のハンコを押して生まれてきたわけではなく、気がついたら生まれていて、いつのまにか大人に育って、知らないうちに年をとって、また気がついたらだんだん弱って死んでいく。じつは

その間に、どこからどこまでが子どもで、どこから先が老いという境界線はないんです。でも、現実には老いはある。それは、人間は言葉を使っているからで、そこに

『老い』という言葉があれば、本質がどうであれ、どこからどこまでが老いだと、

切らなきゃ気が済まない。そうやって、人間の一生という一連のプロセスに対して、無理やり境目を作り出している。たとえば「定年」なんていう目印を置いて、

そこから老いがスタート、ここから先は老後ですというように。しかし、そうした

ことは、その段階でその人の肉体的な能力がどこまで落ちているかなんて、

  誰かが図っているわけではなく、一律で切っているだけだから、不合理である。 

つまり、老いというものは、本来は自然な存在であるはずの人間に対して、人間自身が生み出した「言葉」というものを使って押しつけているだけなのです。いずれに

しても、老いは人間にとって自然なこと。客観的な事実というだけで、本人にとって

何もないのと同じ。だから不安に思う必要なんてないのです。まず、それを受け入れることです。老いから目をそらして、老いを豊かになんて、虫が良すぎです。     

 ーーーーー。

 

 多くの人が、老い、または老後は、何歳から? と問題にしているときに、

このように「そもそも老いは存在しない」という考えは、ギョっとするような

考え方でしょう。

 

  賛成できる、賛成できない、人によって意見は異なるかもしれませんが、

東大の医学部を卒業後、解剖教室に入り、死体の解剖をしてきたという経歴がある

方だけに、生れて死ぬまでの人の一生を、物質のような、生命感のない、乾いた感じのもののように見る習慣から生まれた「老い」に対する見方と言う気がしないでも

ありません。もっとも、人の考え方は変わります。今年89歳になられるという

養老さんの65歳の時の考えが今も同じであるかはわかりませんが・・・・。

 

         2026年4月9日(木)

             清明   鴻鴈北へかえる(がんきたへかえる)

              日が暖かくなり、鴈が北へ帰っていくころ