<フィリピン>
フィリピン、ミンダナオ島の北岸に、カガヤン・デ・オロという町がある。アメリカ資本デルモンテが所有するパイナップル栽培の大農場(プランテーション)は、この町の近郊の小高い山の上にある。山とはいっても、木々がゆたかに生い茂る山の姿はどこもない。その山のいまは平らとなった頂上部分、つまり大農場のど真ん中に立って360度見回したとき、目に入るものは黄色い地肌の地面の上に整然と並べて植えた幼児の背丈ほどのパイナップルの木の果てしない海である。それは、大平原を埋め尽くして整列させられた数百万の大軍の兵を思わせる。
これが、1946年、形の上では独立したように見えたが、それから何十年経っても事実上アメリカの植民地であり続けるフィリピンの現実である。これが、アセアン発足当初その意気込みも高く、アメリカ仕込みの先進性を遺憾なく発揮して他の構成4カ国を指導する筈だったのが、案に相違していつまでも最貧国の地位から抜け出せず、かえってアセアン諸国のお荷物となってしまっているフィリピンの国情の象徴である。
1899年、アメリカ帝国主義が正式にフィリピンを自国の経済に奉仕する植民地経済の地位に突き落してからこの方、その地位は現在に至るもほとんど変ることなく続いている。1946年形式上にも独立すれば、この状態から脱却する努力もやれば出来たであろうが、この国を指導する責務を負った知識階級にそれをする気持はなかった。政治上ばかりでなく経済上もアメリカから独立して国民の暮らしを引き上げるよりも、アメリカの経済との自分たちのつながりを無くさないようにし、そして自分たちだけの富を確保することに躍起になっているからだ。
この国の歴史を紐解いてみればすぐ分かることだが、この国の知識階級は国民を裏切ることに終始した。そしてその伝統は今も脈々と受け継がれている。フィリピンの知識階級がこのような独特な性格をもつのは一体なぜか。それは、この国が18世紀の末まで三百年余の長きにわたってスペインの植民地であったことと無縁ではなかろう。その時代から、知識階級とはスペイン語を使う人々であったし、一般庶民はフィリピン語を使って生きる人々であって、あたかも白人と土人のように互いに入り混じることはなかった。フィリピンがスペインからアメリカに売り渡されたあとは知識階級の言語はスペイン語から英語に変った、ただそれだけの事であって知識階級と一般庶民が一体となる気配はどこにも見られない。
この国を訪れて、たとえばマニラに暫くでも滞在する外国人は、一般庶民とは一目で見分けがつく知識階級(と言っても高下の幅は大いにあるのだが)の人々が、日常の暮らしの中で自在に英語を操って一級市民風を吹かせている風景を見て奇異のまなこを注がずにはいられない。そこからは彼らがタガログ語を卑しんでいる風情すら感じ取られる。
他方、一般庶民が日常使うのは言うまでもなくタガログ語なのだが、彼らとて外国人との意思疎通が何とか図れるほどの英語はこなす。アメリカが植民地時代に押し付けた英語イマージョンの賜物である。しかし、この賜物はフィリピン国民の統合を妨げることに計り知れない貢献を果してしまった。英語力を向上させる資力があり、それだけにイマージョンの成果を誇ることも出来、タガログ語などは忘れてしまいたい知識階級と、タガログ語を忘れる訳には行かない庶民とから成るこの国は、今もって二つに分かれたままである。私たちの日本も同じ道を歩もうとしているとの予感がどうしても消えない。