僕の鏡

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もうひとりの自分を見つける旅

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物が溢れても虚しいのは、誰かが画面越しだから?アナログ的な温かみがないから?
なんなんだろうか。

物は進化している、どんどん。
でも、人って全然進化しない。
いや、肉体的にはしているのかもしれない。
でも、その内側の部分。
そこは昔から変わらない部分でもあるんだろうな、きっと。

生身との触れ合い、接触ではなく、空間的な意味での触れ合い。
とても大事な気がする。

100人の顔見知りより、1人の友人ですよね。
アップサイドダウンという映画を観ました。

これは運命の人と繋がるための難しさ、過酷さを描いた作品だと思う。

まるで王の娘と一般人が結婚できなかった昔の時代のような内容です。

本人達は惹かれ合うのに、環境がそうさせてくれない。

設定はとても雑ですが、内容は微笑ましかったです。

そして陰と陽という部分がとても印象的でした。
知人から頑固そうと言われた。
自分のレッドゾーンに侵入されたら、普段怒らないけどとても怒りそうだと。

僕は思った。
そんなの皆そうじゃない?と。
言わなかったけど。

誰にでも触れられたくない部分はあるわけで、口では良いよといっても内心は違うでしょ。
それが人じゃないか?
でも、この決め付けは視野が狭すぎる。
もう少し視野を広げなきゃ。

そういえば最近気付いたけど、何かを書いていると楽しい。
多分、気が紛れるし自分が何を考えているのか書いているうちに分かってくるから。

話それたけど、理屈っぽそうとも言われた。
理屈なのかは分からないけど、幸せという概念がある。
不幸せという概念もある。
幸せってなんだ?と考えたとき、幸せって作り上げられた概念で、だから反対側に不幸せが出来てしまうんだと思った。
と、いうことは不幸だと感じたくないのなら、幸せって概念を自分の中からなくしてしまえばいいんじゃないのかと、中々実践には難しいことを思った。
これが理屈なのだとしたら、理屈っぽいのは外れじゃない。

けど、こういった類のことは大半の人が考えているんじゃないのかな?
と、いうことはやっぱり皆そうじゃない?とも思うわけです。

もしかして、こんな風に書いていること自体が理屈っぽいのかも…。

まあ人が見る自分と、自分が知っている自分って違うと思うから、仕方ないですね。
どっちも本当のことなんだろうし。
被害者意識が強いのだろう。
勝手に喜び、勝手に悲しむ。
幸せと不幸せを天秤に掛けたらどっちに傾くのか。
どっちでも良い。
勝手に幸せを感じ、勝手に憂鬱になるんだから。
でも、実は恵まれていることに気付いていないだけなのかもしれない。
今日、そんな事を思った。
ありがとう。
最近感じた。

文章の力、言葉の力って人を引き付けたり、離したり、そんなことが出来て凄い。

言葉って道具がなければコミュニケーションはボディランゲージしかないわけで、ネットもなけりゃラジオもない。

テレビはサイレントコメディ、サイレントパントマイムがあるから存在するかもしれないけど、そもそもテレビに出たいこともボディランゲージだし、告知も文字がないからなんなのか分からない。

そう考えると感慨深いよなぁ。

でもその反面、言葉は思考に留まるから、感覚に移すまで"曖昧"なんだよね。

例えば、ワンちゃんにお手を教えるときにワンちゃんは『お手』という概念を知らない。

そこに飼い主さんが「お手はこうだよ」と教えると、それが『お手という言葉+感覚』として知恵になる。

これは人間にも当てはまることで、言葉にひかれるのは分かる。
でも、感覚に染み込ませなきゃ本当の所は分からない。

そうしないと何が本当か分からなくなる。
結果、言葉に踊らされるって事になる。

人間が生んだコミュニケーションのツール(道具)は、ナイフも使い方によっては人を生かしたり殺したり出来るのと一緒で、良くも悪くも影響を与えるんですね。

結局はその人次第。
定型はないわけで、その人が見極めなきゃいけない。

人間が作ったものだから、その時点で一長一短なのは当たり前。

そんなの知ってる。

だからこそ矛と盾、どっちも受け入れられる無限大の容量が僕には必要だ。