イムジン河水清く

 

 「イムジン河 水清く とうとうと流る 水鳥自由に むらがり飛びかうよ」は、「イムジン河」の出だしの歌詞である。

 北朝鮮で生まれた原曲「臨津江(リムジンガン)」から、この1番を訳し、2番、3番を創作したのが作詞家・松山猛だった。歌詞はこう続く。「北の大地から 南の空へ 飛びゆく鳥よ 自由の使者よ~」「イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ 河よ 想いを伝えておくれ~」と。

 軍事境界線を越え、朝鮮半島をほぼ南北に流れる臨津江と鳥に思いを馳せ、分断された国の架け橋となってほしいと願う歌詞である。

 「夕暮れとなり鳥たちが飛び立ったんです。あっ、歌の情景が現れたと思いシャッターを切りました」と、松山がこの写真を撮影したのは、平成11年(1999)だった。38度線近くの大河に夕日が映える1枚の写真に、あの歌が投影されている。

 当時、「イムジン河」はまだ「幻の曲」だった。昭和43年(1968)にザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)によってレコーディングされたものの、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)のクレームから発売中止となっていた。この曲もまた、分断と架け橋の間で揺れ動いてきた。

 その歴史は、松山が京都市内の中学3年生だった時に始まる。在日朝鮮人の生徒と喧嘩が絶えず、松山は朝鮮中高級学校にサッカーの試合を申し込みに行く。喧嘩よりいいと思ったからだ。その時、学校の廊下で耳にしたのが「イムジン河」だった。

 美しくももの悲しいメロディーに感じ入った松山は、後に知り合った朝鮮中学の生徒「文(ムン)くん」から曲名を教えられ、歌詞を書いたメモと朝鮮語小辞典を手渡された。「松山くんもこれで歌詞、訳せるやろ」と。

 レコードとして売り出す話は、松山が作詞したフォークルの「帰って来たヨッパライ」が大ヒットした後、持ち上がった。フォークルのリーダー加藤和彦に次の曲として「イムジン河」を推す。受け入れられたものの、1番しか訳していない。そこで書き加えたのが、2番と3番の歌詞だった。

 ステージで披露すると好評だったが、リリース間際にストップがかかった。発端となった朝鮮総連のクレームについて、総連傘下の在日本朝鮮文学芸術家同盟で音楽部長を務めていた李喆雨(リチョルウ)は、こう明かす。「作詞、作曲者名と、この曲が朝鮮民主主義人民共和国で生まれたことを明記するよう求めました」と。

 原曲は朴世永(パクセヨン)作詞、高宗煥(コウジョンファン)作曲だった。松山たちはそれを知らず、詠み人知らずの朝鮮民謡と思い込んでいた。結局、発売中止になった。

 李の奥底には、松山の歌詞への感謝もある。「差別され、のけ者にされていた私たち在日朝鮮人への優しさを感じました。朝鮮半島に虹がかかれば、と日本人が歌ってくれたのが嬉しかった」

 原曲にも、南北離散家族の悲しさや望郷の思いが刻まれているという。「作詞、作曲の2人とも南(韓国)から北に移住し、望郷の思いも強かった。だから在日朝鮮人社会で、人々の琴線に触れる曲として浸透していたんです。それをフォークルが歌い、日本の多くの人に広く知らしめてくれた」

 昭和62年(1987)には、北朝鮮と交流のあった京都市の交響楽団が、平壌などで「イムジン河」を演奏した。プロデュースした李は、「帰国運動で日本から渡った多くの人が演奏を聴いて懐かしみ、涙していた」と振り返る。

 フォークルの「イムジン河」がシングルCDとして発売されたのは、平成14年(2002)になってからだ。ただ、「お蔵入り」していた34年間も伝説のように歌い継がれ、数々のインディーズ盤がリリースされてきた。

 朝鮮半島は今も分断されたままだ。そればかりか、世界各地で分断と対立が深まっている。架け橋としての「イムジン河」が放つメッセージは、より普遍性を帯びている。

 フォークルの「イムジン河」は良く歌ったが、こんな深い物語があったとは知らなかった。

<東京新聞TOKYO発「昭和のうた物語」文・稲熊均氏参照>

  

令和6年(2024)5月20日