かむろ坂

 

 東急目黒線不動駅近くに、東京都品川区の山手通りから、南西に500mほど上る緩やかな坂がある。「かむろ坂」と呼ぶ。江戸時代のかむろの悲劇がその名前の由来になった。

 禿(かむろ)とは、頭に髪がないことを言い、普通我々は「はげ」と読む。本来は、おかっぱの髪型からつけられた名だ。江戸時代には、遊郭に住む遊女見習いの幼女を指した。

 7 ~8歳頃に遊郭に売られてきた幼女や、遊女の産んだ娘が該当する。太夫や花魁と呼ばれた高級女郎の下について、身のまわりの世話をしながら、遊女としてのあり方を学んだ。禿の年齢を過ぎると「新造」となって、遊女見習いの後期段階に入っていく。

 延宝7年(1679)、花魁が犯罪人の後を追うという心中事件があった。辻斬強盗を繰り返していた元鳥取藩士平井権八が処刑され、目黒の寺に葬られた。権八と相愛だった花魁の小紫は、吉原の遊郭を出て権八の墓前で自害した。

 これが江戸を騒がすスキャンダルとなり、四代目鶴屋南北はこれを題材に歌舞伎『浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)』を書いた。

 悲劇はその後に起きた。小紫に付いていたかむろは捜しに出かけるが、花魁の自死を知る。泣く泣く店に戻ろうとした途中、坂の辺りで暴漢に襲われた。逃げ切れないと思ったかむろは、池に身を投げて絶命する。近くの村人は少女の亡きがらを丘の中腹に葬って塚とした。いつの日か、塚への坂を「かむろ坂」と呼ぶようになった。

 碑が、かむろ坂の途中にある行元寺に立っている。裏面に「二人不戴九人誰」「同有下田十一口」「湛乎無水納無絲」「南畝子」と刻まれている。江戸時代の狂歌師・大田南畝が記したものである。意味が良く分からない。「隠語」だという。

 隠語はこう読み解く。「二人=天、九人=仇」で「天不戴仇誰」。「同有下田=冨、十一口=吉」で「冨吉」。「湛乎無水=甚、納無絲(糸)=内」で「甚内」。「不俱戴天の仇は誰 冨吉 甚内」となる。

 明和3年(1766)、下総国早尾村の農民冨吉は、父親を甚内に切り殺された。冨吉は江戸に出て剣術の修行に励み、17年後の天明3年(1783)、甚内を見つけると神楽坂(新宿区)で仇討を果たす。この「天明の仇討」に江戸の町民は快哉を叫び、冨吉が学んだ道場には入門希望者が殺到したという。

 その行元寺は、江戸時代には神楽坂にあり、境内が仇討の現場だった。神楽坂に住んでいた南畝が、寺関係者から頼まれて記した。寺は明治時代に、区画整理の影響でかむろ坂に移った。

 当時は大事件だったにも拘らず、碑の内容は淡泊だ。「親の敵とは言え、仇討は人をあやめる行為。称賛できなかった」と推察される。

 碑の表面は観音経の「念彼観音力 還著於本人」の10文字。「観音の力を念ずれば、本人に戻る」との意味だ。観音経ではこの前に「呪いや毒で害しようとするために」とあり、「人を呪えば、その呪いは本人に帰る」というくだりなのだ。

 仇討は憎悪の連鎖になる恐れがあることを諭し、隠語で関係者の名前だけに留めた。冷静に事件を見つめ、謎かけしながら供養する。さすが南畝と言えようか。

 かむろ坂の近くに、平井権八と小紫を一緒に供養する塚が二つある。「比翼塚」は目黒不動尊として知られる滝泉寺(目黒区下目黒)の山門前に、「連理塚」は安楽寺(品川区西五反田)の境内に祀られている。

 「比翼連理」とは、男女相愛を示す言葉だ。中国・唐代の詩人白居易による「長恨歌」の「天にあっては願わくば比翼の鳥になり、地にあっては願わくば連理の枝とならん」が由来だという。

 「禿」を「かむろ」とはとても読めないが、「はげ」と「かむろ」では、その響きに雲泥の差がある。

 比翼連理もいい言葉だ。相愛の墓碑を「比翼墓」と言うが、最近はその相手がペットの場合もあるようだ。

  

令和6年(2024)5月14日