真姿の池湧水群

 

 友達を誘い、東京都国分寺市にある「真姿の池湧水群」を訪ねた。世田谷まで続く「ハケ」と呼ばれる国分寺崖線に位置し、国分寺から多摩川中流に至る野川の最源流である。

 JR中央線と武蔵野線が交差する西国分寺駅を下車する。閑静な住宅街を10分ほど歩くと、広大な都立武蔵国分寺公園へ到着する。旧国鉄鉄道学園跡地及び逓信住宅跡地に造られたという。

 1周500mの円形芝生広場を中心に、サクラ・ケヤキ・イチョウなどの巨木 に池・噴水を加えた、水と緑のゆったりした公園だ。鯉のぼりがのんびりと泳いでいた。池のまわりには延長33m・幅3mの藤棚やノウゼンカズラの棚があり、何とも贅沢な公園である。

 公園を抜けて、雑木林の中の階段を下る。樹間からの日差しがまぶしい。水音が聞こえて来る。崖の石垣から、水がこんこんと湧き出ている。真姿の池湧水群である。犬が水浴びをしていた。「この湧水が大好きで、日に1度はここで水浴びをするんです」と、初老の飼い主が話していた。

 水路の前に弁財天を祀った社があった。社を巡るように小さな池がある。錦鯉がゆったりと泳いでいた。「真姿の池」だ。

 池の西側に位置する国分寺の『医王山縁起』によると、嘉祥元年(848)、絶世の美女・玉造小町が病気平癒のために国分寺を訪れ、21日間、薬師如来を参拝した。

 すると一人の童子が現れ、この池の水で洗い清めるようにと言って姿を消した。小町が身を清めると、いつの日か病は癒え、元の姿(真姿)に戻った。この言い伝えによって、真姿の池と呼ばれるようになったという。

 この水路沿いの歩道を「お鷹の道」と呼ぶ。江戸時代は鷹狩りの道だった。尾張徳川家の御鷹場に指定されていた。現在は、約350mを遊歩道として整備され、四季折々の散策路として人気がある。 

 この一帯は湧き水が豊富だったことから、住民は水道が普及するまで、飲み水や炊事などの生活用水として利用した。真姿の池湧水群はお鷹の道と合わせて、環境の良さが評価され、昭和60年(1985)に環境省選定の名水百選に選ばれた。また、東京都の名湧水57選にも入っている。

 お鷹の道の水路沿いに、「史跡の駅・おたカフェ」がある。。地元で採れた野菜を使ったランチなどの飲食ができる「まちの駅」だ。連休のさなかということもあり、大変な賑わいだった。暫し休憩し、アイスコーヒーを飲みながら緑陰の雰囲気を味わう。

 前には、江戸時代の名主だった「旧本多家住宅」や「武蔵国分寺跡資料館」もある。少し行くと、真言宗寺院の国分寺があった。鎌倉時代末期の「分倍河原の戦い」の際に焼失したが、新田義貞の寄進で薬師堂が再建されたと伝えられる。

 寺院内の万葉植物園には、「万葉集」に歌われた約160種類の植物が例歌と共に植えられている。「さいかちに延ひおほどれる屎葛 絶ゆることなく宮仕せむ」(巻16の3855)とある。屎葛とはひどい名だ。アカネ科の多年草で、「へくそかずら」とも言うそうだ。由来は、葉などを潰すと、強い悪臭を放つことかららしい。

 藤棚に、藤を逆さにしたように咲いている花がある。妙な花だなと思っていると、「不思議な花ですね。マメ科ですから藤の一種かも知れませんね」と同調する人がいた。「ジャケツイバラ」という。「蛇結茨」と書くそうだ。由来は、枝がもつれ合って蛇が絡み合っているように見えるからだという。花は黄色だ。

 立派な楼門を出て、まっすぐ行くと、武蔵国分寺跡が広がる。武蔵国分寺の創建は、8世紀半ばの750年代末から760年代初と推定される。敷地は東西8町、南北5町半と推測され、諸国の国分寺の中でも最大級のものである。

 聖武天皇が奈良時代の中頃の天平13年(741)、政治の混乱や社会不安が続く国内を仏の力で安定させようと、諸国に国分寺を建立させたものだ。武蔵国では、都と国府(現府中市)を結ぶ「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が配置された。伽藍は元弘3年(1333)の「分倍河原の合戦」の際に焼失したが、武蔵国分寺跡は大正11年(1922)に国史跡に指定された。

 国史跡から森に覆われた国分寺崖線を眺めると、豊かな森、豊富な湧水、豊穣な土地を想像することができる。家康が江戸に幕府を開いてからは、武蔵国の中心は江戸に移った。

   

令和6年(2024)4月29日