江戸の遊郭「吉原」

 

 東京芸大美術館で、「大吉原展」が開催されている。

 本展には、ワズワース・アテネウム美術館や大英博物館からの里帰り作品を含む、菱川師宣、英一蝶、喜多川歌麿、鳥文斎栄之、葛飾北斎、歌川広重、酒井抱一らの絵画や錦絵、修復後初公開となる高橋由一の油絵「花魁」(重要文化財)などに、工芸品を加えた約230点が展示された。

 江戸文化研究者で、「大吉原展」の学術顧問を務めた田中優子法政大前総長は、遊廓は昭和33年(1958)の売春防止法全面施行で廃止されたが、「遊廓は、前借金の返済のために売春で働く遊女たちによって支えられていた空間。二度とこの世に出現するべきではない」と強調する。

 更に、「江戸時代に人権という概念はなかった。遊女たちは、自分が承認されている人間として誇りを持っていたが、それは役割を果たせという社会的圧力の中で生まれた誇りだった」とも語る。

 一方、遊廓は、和歌や三味線、茶の湯、生け花、着物など、平安時代から続く日本文化の発信地だった。遊女たちは、その担い手であり、女性や子ども、観光客も吉原を訪れていた。「遊女たちが売春で働いているという事実をもって、日本文化のありようを隠してしまうのは惜しい。両方見て欲しい」と話す。

 江戸の吉原は、約10 万㎡もの広大な敷地に、約250年続いた幕府公認の遊廓だった。遊廓は、前借金の返済にしばられ、自由意志でやめることのできない遊女たちの犠牲の上に成り立っていた。一方で、江戸時代における吉原は、文芸やファッションなど流行発信の最先端でもあった。

 3月にだけ桜を植えて花見を楽しむ「仲之町の桜」、遊女の供養に細工を凝らした盆燈籠を飾る7月の「玉菊燈籠」、吉原芸者が屋外で芸を披露する8月の「俄(にわか)」など、季節ごとに町をあげて催事を行い、非日常が演出された虚構の世界でもあった。

 そこでは、書や和歌俳諧、着物や諸道具の工芸、書籍の出版、舞踊、音曲、生け花、茶の湯などが盛んだった。そうした吉原の様子は多くの浮世絵師たちによって描かれ、蔦屋重三郎らの出版人、大田南畝ら文化人たちが吉原を舞台に活躍した。また、これ等の年中行事は江戸庶民に親しまれ、江戸見物に来た人々も吉原を訪れた。

 江戸の遊廓「吉原」(現在の台東区千束4付近)は、人と金の集積地だった。賑わいは芸事や美術、音楽などの文化を生んだ。

 江戸時代はこの付近まで隅田川に繋がる山谷堀の水路があり、遊廓を目指す客は船で通うか、日本堤と呼ばれた土手を歩くかだった。

 道しるべだった「見返り柳」が、吉原大門交差点の横に移植されている。この柳を左手に見て緩い坂を南西に進むと、坂はくの字に屈曲した衣紋(えもん)坂。五十間道とも呼ばれ、江戸時代は多数の商店がひしめき合っていた。

 浮世絵の版元で、数々の有名な絵師を世に送り出した蔦屋重三郎の店もその一軒だった。古地図によると、蔦屋があったのは現在の吉原交番の前あたり。五十間道の一番奥にあたる。現在は普通の民家があるだけで、蔦屋の名残はない。

 現在の吉原は、かつての遊廓の痕跡を見出すことは難しい。吉原大門のオブジェがあり、この手前を右に行くと、外界との境界となった「お歯黒どぶ」の石垣が少し残っている。ほかには、吉原神社と弁天池がある程度だ。

 古代から日本では芸能と性売買が結びつき、吉原もその例外ではなかった。しかし、吉原芸者が登場することで、その結びつきが初めて立ち切れた。芸者は、芸能のみを今日まで担っている。

 この町には、江戸時代に5カ所あった神社を統合した吉原神社がある。関東大震災の犠牲になった多くの遊女の骨を納めた浄閑寺もある。浄閑寺は遊女の投げ込み寺とも言われ、「生きては苦界 死しては浄閑寺」と川柳作家の花又花酔が詠んでいる。

 吉原神社の西に、鷲(おおとり)神社と長国寺がある。11月の酉の市には、商売繁盛を願って大勢の参詣者が集まる。江戸時代の吉原遊廓は、この日は全ての門を開放し、女性や子どもも自由に通り抜けできたという。

 神社から北へ5分ほど歩くと、樋口一葉とその作品を紹介する台東区立一葉記念館がある。名作『たけくらべ』の主人公、美登利の姉は吉原の遊女だった。一葉は、吉原周辺に住む人々の暮らしを生き生きと描いている。

 江戸の遊郭「吉原」が残した、「光と影」を知ることができる。

  

令和6年(2024)4月25日