知床旅情

 

 「知床旅情」は言うまでもなく、森繁久彌(1913―2009)が作詞作曲し、加藤登紀子が歌ったヒット曲である。

 森繁が、昭和35年(1960)に戸川幸夫(1912―2004)の『オホーツク老人』を原作とする映画「地の涯に生きるもの」の撮影で、知床半島の羅臼村(現羅臼町)に長期滞在した際に、「オホーツクの舟歌」を作曲した。

 映画は、その前年の4月6日に起きた海難事故を描いている。羅臼沖を襲った風速30mの強風が漁船を相次いで転覆させ、80人以上が犠牲になる大惨事だった。遭難者の無念の思いを後世に伝えようと、森繁が私財をつぎ込み自主製作したこの作品には、事故の遺族も含め200人近い村人がエキストラとして参加した。

 撮影の最終日に羅臼の人々の前で、先に自作していた「オホーツクの舟歌」に、当地への思いを込めて新たな歌詞を載せて、「さらば羅臼よ」という曲名で披露された。

 蝶ネクタイ姿でギターを弾き、「知床の岬に はまなすの咲くころ~」で始まり、結びでは「忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん 私を泣かすな 白いかもめを~」と別れを惜しんだ。

 「オホーツクの舟歌」に、新たに歌詞を添詞した「しれとこ旅情」が初出時の題名だった。後に「知床旅情」と表記された。昭和35年(1960)に発表された知床を舞台にしたご当地ソングである。

 ただ大きなヒットにはならず、日本中に知られるようになったのは、昭和45年に加藤登紀子がリリースしてからだ。 

 きっかけをつくったのは、後に夫となる学生運動のリーダー藤本敏夫(1944―2002)だった。「彼と初めて二人だけで過ごした夜、別れ際に歌ってくれたんです。京都のバーで森繁さんのレコードを聴いて、気に入って歌詞も覚えていた。彼への思い入れとともに、私の心にもズッシリと響いたんです」と話す。

 この曲を歌うようになり、かねて面識のあった森繁との親交も深まった。2人の人生に大きな共通点があることにも気付く。森繁は戦前からNHKアナウンサーとして満州で過ごし、加藤も誕生から2歳まで、この大地で育った。敗戦により多くの知人と死別するなどの過酷な引き揚げ体験を強いられた森繁の思いは、「地の涯に生きるもの」にも投影されていると加藤は見ている。

 映画で、森繁演じる「彦市」は国後島で漁を営んでいたが、敗戦で島がソ連に占領され、知床への引き揚げを余儀なくされた。所有する漁船に「国後丸」と名付けるほど、島への思いは強い。その船で息子が遭難した。出航前、彦市は「嵐が吹いたら国後に行け」と言い聞かせている。その方が安全だからだ。しかし息子はソ連の警備艇に捕まるのを恐れ、羅臼に戻ろうとして帰らぬ人となった。

 彦市は、こうつぶやく。「海はだれのものでもない」「世界の海がみんなのものになってりゃ、こんなことにならなかったんじゃ」と。

 映画は、海難事故も取材した戸川幸夫の小説「オホーツク老人」がベースとなっているが、この言葉は原作にはない。森繁自身の心の叫びだったのだろう。

 加藤は「知床旅情」がヒットし、初めて羅臼を訪れたときのことをよく覚えている。「はるか国後に 白夜は明ける~」と歌われる島が間近に見えた。

 「島の元住民の方もいて、私が満州からの引き揚げ者ということを知って、『よく生き延びたわね』と言ってくれた。国境があることで土地を追われる人がいて、不条理も生まれる。本来、大地にも海にも境はない。命にも国境はない。森繁さんが一番伝えたかったことだったと思う」と語る。

 後に加藤登紀子のカバーがヒットすると、森繁盤も売れ行きを伸ばし、昭和46年時点で森繁盤の売上は40万枚を記録した。森繁は昭和50年3月に挙行された日本放送協会開局50周年記念式典において、昭和天皇と香淳皇后の御前で「知床旅情」を歌った。

 羅臼町にある海に面した「しおかぜ公園」には、森繁久彌が出演した映画「地の涯に生きるもの」の彦市の像と、「知床旅情」の歌碑が立てられている。

<東京新聞TOKYO発参照>

  

令和6年(2024)4月15日