高梨本家歴史館

 

 茂木本家美術館を訪問した後、同じ野田市にあり、キッコーマンの創業家でもある高梨本家の上花輪歴史館を訪ねた。

 冠木門をを潜ると、修理中の長屋門がある。そこで受付をすると、概ねの見どころと簡単な説明をしてくれた。

 上花輪歴史館は、高梨兵左衛門家を母体とし、平成6年(1994)に公開された博物館である。高梨家は、信州から出たと言われ、当主は代々、兵左衛門を名乗っている。

 名主として上花輪村(千葉県野田市)の経営に携わるとともに、寛文元年(1661)より19代当主が醤油醸造を始め、幕府御用として醤油を上納していた。「名主としての高梨家」と「醤油醸造家としての高梨家」に残された資料が、展示されている。

 高梨家は大正6年(1917)に縁戚関係にあった野田町の茂木家や流山町の堀切家などと合併し、野田醤油(現キッコーマン)を設立した。野田の醤油醸造の歴史は古く、室町時代(戦国時代)頃からと言われる。

 昭和初期に、「北に山、西に森」という風水思想を受け継ぎながら、28代当主が屋敷や庭園を大改修した。数寄屋造母屋や庭園に鞍馬石がふんだんに使われ、平成13年(2001)に「高梨氏庭園」の名で、昭和の庭園としては初めて国の名勝に指定された。庭園面積は1000坪。また、「野田市の醸造関連遺産」として、近代化産業遺産にも認定されている。

 早速、数寄屋造棟へ向かう。北側奥の山に、椨(たぶ)の巨木が見える。風水の「北の山」だ。表玄関の前の杉の上部だけに枝葉を仕立てた台杉が印象的だった。裏に回ると、江戸末期に建てられた書院がある。巨大な鞍馬石の沓脱石から飛び石が打たれた庭園に、柏と松の古木が対になって植えられている。

 西に回ると、神楽殿のある稲荷神社。その奥に茶室「眺春庵」がある。江戸川に通じる構堀が眼下にあり、眺めがいい。西奥は風水で言う「西の森」となっている榧の木の屋敷林だ。竹林の中に、醸造の神様・松尾神社もある。

 戻って、とくさ塀を潜ると、主人室がある。通称十二畳と言い、台所や居間と連なるこのエリアは、家族が日常を過ごす場所でもあった。そこを出ると、籾蔵や馬廻がある。籾蔵は飢饉に供えての上屋造りの備蓄倉庫、馬廻には、かつての庄屋時代に使った農機具が展示されていた。

 最後に、醤油づくりの展示棟を見学する。醤油づくりの機材が展示されている。中でも、「きりん」と呼ばれていた綱引螺旋式圧搾機の巨大さに驚いた。まるで麒麟である。

 展示棟の出口に、「名主の仕事」というパンフレットがあったので頂いた。江戸時代に、村の行政を担っていた役職が「村役人」であった。「名主」は村の代表者として、領主と村の橋渡しをする。「組頭」は名主の補佐役。年寄とも言う。「百姓代」は一般の百姓の代表。名主・組頭の補佐役、監視役である。これらは「村方三役」とも呼ばれ、名主宅に集まり、日々の業務に当たった。

 上花輪村は江戸幕府の直轄領であったため、名主は代官と直接関わって村政に当たった。村を運営する知識や行政力、年貢納入責任者として、時には立て替えることもできる経済力が必要であった。

 高梨家には、村の行政に纏わる「文書類(古文書)」や「村絵図」、幕府からの通達を村人に伝えるための「高札場跡」、飢饉に供えて籾などを貯蔵していた「籾蔵」、天明・天保の飢饉に際して代々の当主が困民救済したことを認めた「顕彰碑(高梨氏救菑記)」など、名主としての仕事ぶりを伝える史資料が、多数残されている。

 なるほど、参考になった。

 現在、上花輪歴史館は、財団法人高梨本家が運営管理している。入館料500円を徴取しているとはいえ、来場者も少なく、運営は成り立たないのではないかと思う。この貴重な遺産を維持存続させるために、地域の協力が必要と思われる。

  

令和6年(2024)3月16日