全共闘終焉の始まり

 

 1969年(昭和44)9月5日、日比谷野外音楽堂(野音)で、「全国全共闘連合結成大会」が開催された。

 その日、東大闘争全学共闘会議(東大全共闘)の山本義隆議長が明大全共闘の隊列に身を預けて野音に入ろうとしたところ、機動隊の検問を受け逮捕された。

 この大会は、日本中で燃え広がった学園紛争の沈静化を図る「大学立法」が公布される中、各大学で組織された全共闘を全国連合として束ねようと開催された。

 山本は、全共闘連合の議長に選ばれることになっていた。副議長は日大全共闘の秋田明大だが、既に獄中にいた。大会を前に2人が不在となったことで、全共闘が抱えていた問題点が露呈することになった。

 全共闘のシンボルとなったのは日大と東大の全共闘運動だ。日大では、20億円を超える大学の不正経理問題を質すために結集された。東大では医学部での研修医の待遇改善運動をきっかけに、大学の在り方を問う闘争に発展した。山本は大学院の物理学研究者、秋田も政治思想を主張するセクト(党派)とは無縁の存在だった。

 2万6千人の学生が集まった会場は、山本の逮捕が報告されると怒号に包まれた。結成大会は、開会早々からセクト色が顕在化した。山本の代わりに基調報告を読み上げた東大の代表は、白ヘルを被った中核派だった。「全共闘を代表するなら、白ヘルを脱げ」との怒号が起る。しかしその後も、各大学の報告の多くは、セクトの指導者によるものだった。

 実際、大会は新左翼「主要8派」のセクトによって仕切られ、採択された大会宣言も、日米安保条約の粉砕といった政治色の強いものになった。会場は、セクト間の「内ゲバ」と怒号の応酬だった。全国連合の結成大会でありながら、全共闘終焉の場となった。

 大会で脚光を浴びたセクトがあった。会場では一つの印刷物が売れに売れていた。赤軍派の機関紙『赤軍』だ。持ち込んだのは、後の日本赤軍最高幹部の重信房子だった。

 赤軍派は、この大会の3日前に結成されたばかり。2万6千人の学生が集まった野音は、いわばデビューの舞台だった。既存のセクトにはない先鋭かつ過激な考えで世界革命戦争論を掲げ、銃や爆弾による武装蜂起を目指す赤軍派は、大会に参加した学生からも強い関心を集めた。

 赤軍派はこの大会を実質的に仕切っていた新左翼「主要8派」には入っていない。8派の一角であるブント(共産主義者同盟)から分派した赤軍派は、この時鮮烈な登場を果した。

 この翌年の1970年、よど号ハイジャック事件を起こす。71年に連合赤軍を結成。72年のあさま山荘事件により、組織内リンチによる大量の同志殺害も発覚した。中東に渡ったグループは、日本赤軍として多くの国際テロに関わった。

 言うまでもなく、野音での大会に参加した学生は、そんなセクトを求めたわけではない。全共闘は各大学で起きた身近な問題への異議申し立てから結成され、多くの一般学生の共感も得ていた。最終的には機動隊に排除された。

 権力に対抗するには、本格的に武装して機動隊に勝つこと。その可能性を感じさせたのが赤軍派だった。もう一方で、全国全共闘連合結成による各大学の横の連携だった。しかし山本の逮捕もあって不調に終わり、セクトによる過激化に大きく傾き、全共闘の終わりの始まりとなった。

 未完のまま終焉を迎えた全共闘運動だが、当時提起した問題には、今こそ議論が求められる課題も多い。大学自治の崩壊が問われる中で、大学の自治は全共闘が訴えた根幹でもあった。

 あれから50年以上が経った。若き血に燃えた闘争は、無駄になってはいないだろうか。そして今、そして今後を見据えた時、もう一度見つめ直してみたいと思う。

 

<全学共闘会議(全共闘)> 1960年代後半の学園紛争の際、全国の大学で結成された学生組織。既存の自治会組織や一定の政治思想を主張するセクトを超えた運動体として、一般学生も吸収して構成された。東大では68年、大学と対立した学生が安田講堂を占拠し、全共闘を結成。翌69年1月18、19日に大学当局の要請を受けた警視庁機動隊が学生を排除して封鎖を解除した。一連の紛争の影響で同年の入試は中止された。

東京新聞TOKYO発参照

  

令和6年(2024)1月24日