黄泉比良坂

 

 NHKテレビが毎週金曜夜10:45から放送している、「ドキュメント72時間」という番組がある。10月6日に、「島根・黄泉比良坂 あの世との境界で」という妙な番組があった。黄泉比良坂(よもつひらさか)とは、日本神話において、生者の住む現世と死者の住む来世(黄泉)との境目にあるとされる坂、つまり生と死の境界の場所のことである。

 緑豊かな自然の中に、大きな岩がある。一見、特別な場所には見えないが、ぽつりぽつりと人が訪れてくる。島根県出雲市にほど近い、松江市の山あいにある黄泉比良坂である。 『古事記』にも登場し、この世とあの世の境界と言い伝えられてきた場所だ。亡くなった親友に会いに来たという人。神話の世界に興味があると遠方から訪れた人。亡き父宛てに手紙を送る人。この不思議な場所に、いったい何があるというのだろうか。

 日本神話での黄泉比良坂は、古墳の石造りの棺を納めた石室に通じる道から来ているとも考えられている。

 『古事記』では上巻に2度登場し、出雲国の「伊賦夜坂(いふやさか)」がその地であるとする伝承がある。「ひら」は古語で「崖」を意味する。「祓い」と関連があるものとも言われている。

 生者と死者の住む領域に境界の場所があるとする神話は、「三途の河原」などとも共通する思想であり、世界各地に見当たる。

 世の中の初めに男神・伊邪那岐(いざなぎ)と女神・伊邪那美(いざなみ)がいた。伊邪那美は日本国を産んだ後、火の神・軻遇突智(かぐつち)を産んだ時の火傷で命を落とし、黄泉の国を治めることになった。 残された伊邪那岐は、自分の持ち物や体から天照大神(太陽の女神)月夜見尊(月の男神)素戔男尊(嵐の男神)など沢山の神々を産み出した。

 伊邪那岐の妻・伊邪那美が、火の神・軻遇突智を産んだことで亡くなると、悲しんだ伊邪那岐は妻に会いに、黄泉の国に向かう。

 伊邪那美に再会した伊邪那岐が一緒に帰ってほしいと頼むと、伊邪那美は「黄泉の国の神々に相談してみるが、決して私の姿を見ないでほしい」と言って立ち去る。

 なかなか戻ってこない伊邪那美に痺れを切らした伊邪那岐は、約束を破って櫛の歯に火をつけて暗闇を照らし、彼女の醜く腐った姿を見てしまう。約束を破られて怒った伊邪那美は、鬼女の黄泉醜女(よもつしこめ)を使って、逃げる伊邪那岐を追いかけるが、黄泉醜女たちは伊邪那岐が時間稼ぎに投げた葡萄や筍を食べるのに夢中で、役に立たなかった。

 伊邪那美は代わりに雷神と鬼の軍団・黄泉軍を送りこむが、伊邪那岐は黄泉比良坂まで逃げのび、そこに生えていた桃の木の実・意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)を投げつけて追手を退ける。

 最後に伊邪那美自身が追いかけてきたが、伊邪那岐は千引の岩(動かすのに千人力を必要とするという巨石)を黄泉比良坂に置いて道を塞ぐ。閉ざされた伊邪那美は怒って、「愛しい人よ、こんなひどいことをするなら私は1日に1000の人間を殺すでしょう」と叫ぶ。これに対し伊邪那岐は、「愛しい人よ、それなら私は産屋を建てて1日に1500の子を産ませよう」と返して、2人は離縁し黄泉比良坂を後にした。

 神話とは言え、興味深い話である。平成22年(2010)に河原れんの小説「瞬 またたき」を、磯村一路監督が映画化したロケ地としても使われた。

 お盆には迎え火を焚いて先祖を迎え、送り火を焚いて送る。あの世とこの世の出入口は何処にあるのか。いずれ行く道である。この歳になると、ちょいと確認してみたくなる。

 黄泉比良坂とは、そんなあの世とこの世との境界を連想させる場所である。

  

令和5年(2023)11月13日