ゾルゲ事件

 

 ゾルゲ事件とは、国際共産主義指導組織であるコミンテルン本部の指令で来日したリヒャルト・ゾルゲを中心とするソ連のスパイ組織が、日本国内で諜報活動や謀略活動を行っていたという事件である。

 昭和16年(1941)9月から17年4月にかけて、その構成員が逮捕された。この組織の中に、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実(ほつみ)がいた。

 学生時代に何かの議論の時に出た名前で、その後思い出すこともなかった。それから半世紀が経ったある日、新聞か何かでその「ゾルゲ」を目にした。ゾルゲとは一体何だったのかという思いから、ちょいと調べてみたくなった。

 ソ連共産党中央委員会及び赤軍第4本部に所属して諜報活動をしていたゾルゲは、ナチス党員の肩書きと共にドイツの新聞記者を装って来日し、駐日ドイツ大使館などで情報収集を行っていた。

 当時近衛文麿内閣のブレーンの一人であり、満鉄の嘱託でもあった尾崎秀実からも情報を得ていたゾルゲは、対ソ戦での日本の方針やナチスのソ連攻撃情報を収集・分析して、ソ連共産党最高指導部に報告していた。

 ソビエト政府への情報漏洩は、実に8年にも及んだ。ゾルゲ諜報団は、各国からのコミンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現を目指す日本人活動家たちによって組織されていた。

 その中でも、ゾルゲが最も厚い信頼を寄せていたのが尾崎秀実であった。近衛内閣嘱託の立場を利用して、決死の覚悟で尾崎は国家機密をゾルゲに提供していた。

 報告された主な内容は、日独防共協定、大本営設置事情、ノモンハン事件、日独伊軍事同盟をめぐる問題、さらには最高国家機密である御前会議の内容にまで及んでいた。

 昭和14年(1939)、ドイツ軍のポーランド侵攻をきっかけに、第2次世界大戦が勃発する。ゾルゲはモスクワからの緊急指令として、独ソ戦に関する日本軍の動向を探る任務を受ける。

 尾崎秀実や西園寺公一の貴重な情報から、日本の対ソ戦回避を画策する。昭和16年9月の御前会議で、日本軍の南進政策が決定。日本に対ソ開戦の意志なしの知らせを受けたソ連軍は、独ソ戦に戦力を集中させ、ドイツ軍に圧勝した。

 任務を完遂したゾルゲと尾崎だったが、翌10月にこれらの活動が発覚し、ゾルゲのグループは「国際諜報団事件」として、日本人検挙者は35名、うち18名が治安維持法、国防保安法、軍機保護法などの違反容疑で起訴された。逮捕されたゾルゲは、「もはや日本に盗む機密は何もない」と豪語したと言われる。

 ゾルゲ事件は日本政府ばかりか、内外に大きな衝撃を与えた。日本警察当局はその事実に驚愕し、発表を半年以上伏せていた。検挙者は獄死したり、取り調べ中の拷問で死んだりしたが、3年間の取調べと獄中生活後の昭和19年11月7日、奇しくもロシア革命記念日に、ゾルゲと尾崎秀実は処刑された。

 昭和39年(1964)、ゾルゲはソ連から「最高ソ連英雄勲章」を贈られた。英雄の称号を得るまで、ゾルゲ没後20年の時を要した。昭和5年代(1930)当時、ソ連最高指導者スターリンはゾルゲを二重スパイではないかと疑い、ゾルゲが命がけで提供した情報も全面的に信用してはいなかったという。

 ゾルゲは、『日本における私の調査』と題した文章で次のように記している。 「行った先々でその土地のことを知るのは、私の希望であり、楽しみであった。このことは、日本および中国で特にそうであった。私はそうした視察を行うことを、単なる目的のための手段とは考えなかった。もし私が平和な社会状況と、平和的な政治的環境のもとに生きていたとしたら、多分私は学者になっていただろう。少なくとも諜報員になっていなかったことだけは確かである」と。

 一方、尾崎の行動は現在もいろいろな見方がある。また尾崎の後継者とされた人たちが、冤罪だった可能性が極めて高いとも言われている。

 ゾルゲは、明治28年(1895)にロシア帝国の領土アゼルバイジャンの油田の町バクーで生まれた。ドイツ人の父とロシア人の母を持ち、3歳で家族と共にドイツに移住した。

 18歳の時、第1次世界大戦でドイツ志願兵として戦場に赴き、3度負傷。3度目の負傷で除隊となるが、この時の後遺症で生涯片足が不自由になった。大正8年(1919)、ドイツ共産党に入党。国際共産世界の実現を夢見てコミュ ニストになる。

 その後、ロシア共産党に移り、共産党の国際組織であるコミンテルンの一員となった。昭和4年(1929)にソ連赤軍第4本部に移り、昭和5年1月、ドイツの新聞記者の肩書きをもって上海へ。その目的は、中国国民政府と中国をめぐる資本主義列強の動向を調査するためだった。

 上海でアメリカ人女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを介 して、尾崎秀実と出会うことになる。

 多磨霊園にゾルゲの墓がある。墓所左手には「ゾルゲとその同志たち」と題され、11名の同志の名が刻まれた碑が建つ。裏面にはゾルゲの同志で獄死した宮城与徳(同墓)の父、與整(与正)の句が刻まれている。

 「ふた昔 過ぎて花咲く わが与徳 多磨のはらから さぞや迎えん」

参照:『ゾルゲの見た日本』みすず書房

  

    令和4年(2022)6月20日