香川敬三の娘・志保子

 

 明治天皇の后、美子(はるこ)皇后(昭憲皇太后)の洋装アドバイザーを務めた側近女性がいた。皇后を支える事務方トップの皇后宮大夫・香川敬三の長女・志保子である。英国留学中から敬三の相談相手となり、帰国後、皇后の通訳兼洋装担当の御用掛として、近代的な皇后像の演出に貢献した。

 西洋文明を受け入れて急速に変化していく皇室を、茨城県出身で皇后宮大夫を務めた香川敬三と、皇后のスタイリストだった娘の志保子の2人が支え続けた。

 来年2~4月、香川親子の活動に光を当てた特別展「華麗なる明治―宮廷文化のエッセンス」が、茨城県歴史館で開催される。

 特別展では、皇室ゆかりの資料を中心に皇族や華族女性、女官などの宮廷衣装も展示する予定という。長さ約2.6mに及ぶ志保子着用の大礼服のトレイン(引き裾)のほか、明治末期~大正初期のヴィジティングドレス、洋行中の和・洋装姿の古写真なども展示する。

 志保子は文久2年(1862)、水戸藩郷士だった敬三の長女として誕生。22歳の時の明治18年(1885)に、英国に私費留学する。明治19~20年、視察のため英国に立ち寄った小松宮彰仁親王夫妻に随行して、フランス、ドイツ、ロシアなど欧州各国を歴訪した。帰国後の明治21年に宮内省御用掛を拝命、皇后の通訳と服飾を担当し、敬三とともに皇后に仕えた。

 この2年間の留学中に敬三と志保子が交わした書簡は、170通以上に及ぶという。敬三は皇后をはじめ宮中の洋装化などの様子を、志保子は諸外国の儀式の模様や各国王室の動静などを伝えた。

 明治19年5月20日付の敬三宛ての書簡では、志保子は「(洋学・洋服を勧める伊藤博文宮内大臣に)国の為ならば、何にても致すという皇后の言葉はありがたい」と返事。同時に、敬三が皇后に勧めた外国語の勉強に天皇が反対していることについて、「『通弁(通訳)にて充分』との(天皇の)御言葉への父の嘆息はごもっともだ。欧州の皇族は2、3カ国語に通じて交際する」と父の意見に賛同する考えも寄せている。

 皇后が華族女学校の卒業式で初めて洋装した翌日(同年7月31日付)の志保子宛て書簡では、敬三は「かなり御似合遊ばされ候」と誇らしげに報告しながらも「もっとも仕立等が本邦人なので十分とは申しがたい。(略)飾物にも乏しく(横浜にもなく)これには頗る困った」と言及。志保子は同年12月28日付書簡で「皇后御服(最初の大礼服)をドイツに発注したことは、当地日本人でよく言うものはない」と欧州での評判も伝えている。

 皇后の信頼厚い敬三と欧州で見聞を深めた志保子が、西洋化に揺れる明治皇室を支えた功績は大きい。皇后の洋装化に関しても、実地の見聞をふまえた助言を敬三に行っており、宮中に洋服が導入されていく初期の動きを知る上で大変貴重な資料と言われる。

 香川敬三は天保10年(1863)生まれの水戸藩出身の勤皇志士。水戸の野口郷校(時雍館)や藤田東湖の私塾で学ぶ。一時、一橋慶喜の側近となったが、急進的であったため罷免される。慶応元年(1865)、岩倉具視と親しくなり、慶応3年には土佐藩中岡慎太郎率いる陸援隊の副隊長格となった。

 戊辰戦争が勃発すると、香川は東山道軍総督府大軍監として江戸から宇都宮へ進軍し、会津まで転戦した。後に宮内省に移り、皇后宮太夫となる。士族だったが、華族に編入され伯爵位に。従一位勲一等旭日桐花大綬章。大正4年(1915)に死去する。

 流山を最期の地とした近藤勇の話が残る。香川敬三・有馬藤太率いる東山道軍は江戸より宇都宮へ出立し、宇都宮城占拠を狙う会津・桑名に対抗するため春日部に入る。

 途中、近藤・土方ら新選組隊士が流山に駐屯していることを知り、急襲包囲する。近藤は自刃を決意するが土方に止められ、幕臣大久保大和の名で出頭するが、見破られ板橋の刑場で斬首。京都三条河原に晒された。

 近藤の処分を巡って、惜しい人材と擁護する総督府小軍監・有馬藤太らの薩摩藩と厳罰を望む土佐藩が対立。近江屋事件における坂本竜馬・中岡慎太郎暗殺は、新選組と信じる土佐藩谷干城に押し切られる形となった。

 有馬藤太は後に西郷とともに下野し、西南戦争で死去する。香川とは、その後の人生で大きく異なるが、有馬の生き方には共感するものがある。しかし、残った香川親子の皇室近代化の功績も大きかったと言える。

     

      令和3年(2021)9月25日