石見侍・益田元祥

 

 島根県古代文化センターによる「島根の歴史文化講座」の「島根の戦国時代」第2講が、再びオンラインで開講された。島根県古代文化センター専門研究員の目次謙一氏が、「石見の領主と戦国大名~益田氏と毛利氏~」というテーマで講演した。

 第1講は出雲国尼子氏のお家再興の話だったが、第2講は石見国益田氏の話である。石見国は、東に出雲国、西に長門国と周防国、南は安芸国に囲まれた島根県西部に位置する。平地が分散する山間の地であり、盆地毎に領主が並び立ち、勢力を広げ難い地勢だった。福屋、周布、三角、益田、吉見などの各氏がそれぞれの地域を支配していた。

 益田氏は石見益田を本拠としていた武家だが、本姓は藤原氏と言われる。初め浜田の御神本(みかもと)に館を構えたことから御神本氏と称したが、建久9年(1192)の4代兼高の代に居館を益田に移し、以降益田氏と改めた。

 後に毛利氏に臣従し、関ヶ原の戦い後は長門須佐を領した。一族の通字は「兼」、家紋は「九枚笹」である。我が家と同じだ。明治以降は男爵に叙爵され、子孫は萩市須佐を離れて都内に在住している。

 益田元祥は石見七尾城主で、第20代当主である。毛利氏の重臣。妻は吉川元春の娘。毛利元就が烏帽子親で、通字は「兼」だが、元就の一字を貰い「元祥」とした。

 講演は、「益田元祥はなぜ家康の誘いを断ったのか」から始まった。関ヶ原の戦いで西軍に与した毛利輝元は石見国を含め大半を失い、周防・長門の2か国のみとなった。輝元家臣の元祥は、石見国1万石から退去を迫られた。

 「石見国に残りたければ、わしに使えよ。さすれば所領は安堵する」と、家康に誘われた。元祥は「昔から毛利家に仕えた家臣ではないが、恩義があるので毛利家に仕える」と、家康の誘いを断った。元祥の忠義の篤さに感じ入り、諦めたという。

 石見国は平野が分散し、山間部に点在する盆地に多くの領主が割拠していた。領主同士は婚姻関係で盟約を交わし、関係を深めた。益田氏は、大内氏の重臣・陶氏と関係を深めていく。

 毛利氏は安芸国の有力者となり、陶氏と関係を深める。益田と毛利は陶晴賢の下剋上に協力し、大内義隆を自害させる。毛利元就は弘治元年(1555)、厳島の戦いで陶晴賢を破り大内氏は滅び、周防・長門両国を支配下に置く。益田は毛利との関係が悪化するが、配下に入り和睦し、共に出雲国尼子氏を平定する。元就から「元」の一字を与えられ、益田元祥と名乗る。

 元祥は吉川元春の娘と結婚し毛利との連携を強め、国人領主連合の盟主的存在となる。毛利輝元(元就の孫)の親族や側近との婚姻を通じ、関係強化を図って行った。関ヶ原の戦い以後は萩藩の家臣となる。後に吉川広家の次男を養子に迎え、益田氏は永代家老家となった。

 益田元祥が家康の誘いを断った訳は毛利輝元への忠義もあるが、自ら石見国を築き上げてきた「石見侍」としての自負があったのではないだろうか。自らを「石見国付之者」と称したように、元祥は石見の侍だった。

 家康は、大名格に評価した元祥の政治力と、石見国の日本海に通じた経済基盤と石見銀山の銀が欲しかったのだろう。

 甲冑を着け騎乗する益田元祥の肖像画が残されている。天才絵師・狩野永徳の父・狩野松栄(直信、源七)の作で、国の重要文化財に指定されている。鞍の下に虎の皮が描かれており、益田氏の対外交易が窺える。

 同様に、益田家第15代当主・益田兼堯の肖像画も残されている。文明11年(1479)に、雪舟によって描かれた国の重要文化財である。雪舟が涙でねずみを描いた話は有名だが、文明10年頃に石見国を訪れている。

 古くから島根県益田市は雪舟の町として、医光寺と萬福寺の雪舟庭園や雪舟が晩年を過ごした東光寺跡に建つ大喜庵などが有名だが、雪舟や益田家に関する資料を収集した「益田市立雪舟の郷記念館」が当時の栄華を伝えている。

     

令和3年(2021)2月14日