小金牧の開墾

 

 今から150年ほど前、ここ下総台地には江戸幕府の馬の放牧場「小金牧」「佐倉牧」があった。明治に入り牧の制度が廃止されると、東京の窮民や旧幕臣が開墾民として入植してきた。その記念碑が、千葉県松戸市五香六実の髙龗(たかお)神社にある。

 その記念碑を訪ねて、新京成線元山駅を降りた。住宅街を抜けると、とても読めそうにない「髙龗神社」があった。髙龗神社は明治2年(1869)に開墾事業により入植した人々が、防火のため出雲から勧請した「龍蛇神」と、相模大山から勧請した荒々しい龍蛇を意味する「髙龗神」を祀った鎮守様である。龗神(おかみのかみ)とは雨や水を司る神で、農耕の神という事が出来る。

 その髙龗神社に、「香実会所跡碑」と「開墾百年記念碑」が建立されている。香実会所とは、開墾民を統率した開墾会社の社員の詰所の別称で、開墾民に生活物資を支給する所でもあった。しかし、開墾民の印象は、必ずしも良いものではなかったという。開墾百年記念碑には、碑文としてその経緯が書かれ、「農林大臣倉石忠雄書」と記されてあった。

 『大日本農史』によると、小金牧や佐倉牧など下総牧の開墾が始まったのは明治2年3月10日のことである。それは、「このたび戸籍改正の命令が出、貧しい人々を居住させ開墾労働に用いる事とし、管轄は東京府で最も適当な処置をする様指示する。ただし場所については、葛飾県と打合せを行うこと」というものだった。因みに、葛飾県の県庁は流山に置かれていた。

 その年に新政府は戊辰戦争の戦費を、三井八郎右衛門など主に関西の政商に負担させてきた見返りに、幕府が保有していた小金・佐倉牧の払い下げを行った。要請を受けた旧三井財閥の祖・三井八郎衛門は、東京の富裕な商人たちの出資を募り下総開墾会社を設立し、下総国諸牧の開墾に着手した。                  

 この開墾に参加した人たちは、主に幕府方に与し職を失った各藩の諸大名の家来やその子弟、その他商人など肉体労働には不向きな6000人に及ぶ東京窮民であった。しかも土地は関東ローム層のやせ地で、生活はつらく厳しく、脱走者も後を絶たなかった。この事業は明治5年に解散し、開墾地は出資者と入植者に分けられた。

 地積を分けて、村名を定めた。それが移住順の数字と美称を組み合わせた葛飾郡に残る12ヶ村、初富・二和・三咲・豊四季・五香・六実・七栄・八街・十倉・十余一・十余二・十余三である。

 その後、開墾会社と開墾民との間に、開墾地の帰属をめぐる長い裁判闘争が続いた。しかし、ことごとく農民側の敗訴に終わった。戊辰戦争の戦費を請け負った政商たちへの払い下げという、政治目的があったためと思われる。今下総台地に残る開墾碑の多くは、この裁判の過程で農民たちが残した無言の叫びなのである。

 野馬除け土手も残っている。これは、徳川幕府の野馬の放牧場に築かれた土手のことだ。馬の逃亡を防ぎ、野犬などから馬を守り、農民の農作物を守るためのものだった。総延長は150kmに及ぶともいうが、宅地開発で分断され、案内板がなければその存在すらわからない。今や信仰の「野魔除け土手」として、大切に保存してほしいものだ。

 髙龗神社の境内に、画家・山口豊専の句碑「粛として もの静まりぬ 冬の月」がある。豊専は明治24年(1891)に千葉県白井市に生まれ、終の棲家とした松戸市六実で句会を復活し、「松東(しょうとう)俳壇」と名づけ、地域文化の発展に貢献した。結婚式に呼ばれて都都逸「ちょいと住もうと六実に来たら今じゃ話さぬ人が居る」と唄い、満場の喝采を浴びたというエピソードもある。「ゼニ勘定と肩書が大嫌い」だったという。昭和62年、95歳で亡くなった。

 野馬の放牧場・小金牧は、広重の「富士三十六景 下総小金原」に描かれるほど、風光明媚なところだった。広重の絵からは、開墾民の苦悩を想像できないが、残された記念碑から、農民の無言の叫びが聞こえて来るようだった。

   

令和2年(2020)6月17日