イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

理想の農村づくり

 地域の指導者として、農村の発展に邁進した染谷亮作の足跡を辿る生誕140年特別展「染谷亮作と川間村」が、野田市郷土博物館で開催された。「村の文化の中心」と位置付けた小学校の建設など、理想の農村づくりに奮闘した姿を、写真や手紙、書類など80点で紹介した。
 旧川間村は野田市北部の関宿の南側、利根川と江戸川に挟まれた地域で、当時は農業が主な産業だった。染谷は裕福な農家の長男として、明治9年(1976)川間村中里に生まれた。「ハナタレ」だったと晩年回想している。
 染谷は、直線で5キロほど南の茂木高等小学校(野田市立中央小学校)へ歩いて通い、県尋常中学校(県立千葉中学・高校)を経て帝国大学農科大学(東大農学部)に進学。卒業後、愛知県立農林学校(県立安城農林高校)の開設に、農場主任として関わった。父親の死去により、明治40年(1907)川間村に帰郷し、31歳で染谷家を継ぐ。理想の農村づくりに乗り出だした。
 染谷に深い影響を与えたのは、日比谷公園などを設計した「日本の公園の父」と呼ばれた本多静六教授と、愛知県立農林学校の初代校長で、農村自治を唱えた山崎延吉の2人だった。愛知県の農業改善に力を尽くし、安城市一帯が「日本のデンマーク」と呼ばれるほどの農業先進地になったのは、山崎の力によるところが大きい。
 愛知県立農林学校は明治34年(1901)に創立され、その後安城農林学校に改称した。新潟県の加茂農学校と静岡県の中泉農学校と共に、三大農学校と呼ばれた。
 染谷亮作という名は、今まで聞いたことがない。野田にこんな人がいたのかと興味を覚え、出かけてみた。東武野田線・野田市駅を降りる。肌寒いが、雲一つない冬晴れだった。
 大名屋敷のような門を潜り、醤油醸造家・旧茂木佐平治屋敷内に建つ郷土博物館に入る。国内有数の醤油関係資料が展示されている。何しろキッコーマンの街である。
 資料を頂き、入館する。染谷が茂木高等小学校で受けた賞状や「理想の川間小学校」の計画図、得意だった書道用具など、農業と教育の理想を目指した染谷の生涯と川間村の発展を紹介している。
 染谷は農林業を営みながら、まず愛知県立農林学校での経験を生かし、地域と一体化した学校運営を目指す川間小学校の建設に取り組んだ。東葛飾郡立野田農学校(県立清水高校)や北総鉄道(東武野田線)川間駅の誘致、水害を防ぐための排水路の整備などに尽力する。
 川間村を建築物に例えて、「地」が家庭、「屋根」が役場、屋根を支える「柱や壁」が村の諸機関・組織だと解説した絵図面には、大きく「自治」と書かれ、川間村の自治が家庭、役場、諸機関・組織の協力で成り立つことを分かりやすく示している。
 染谷は村長なども務めたが、還暦を過ぎた昭和13年(1938)に、東葛飾郡の県議補選に当時の二大政党の推薦を受けて、無投票で当選した。しかし、染谷に無断で政党が推薦していたため、当選を辞退したという逸話が残っている。染谷は政治家ではなく村の一員として、村をいかに良くするかという信念を持った人物だったのだろう。川間村が野田市に編入された2年後の昭和34年に、83歳でこの世を去った。
 敷地内にある、大正13年に建てられた旧茂木佐平治邸宅とその庭園内の茶室「松樹庵」は、国登録有形文化財に指定されている。昭和32年に市民会館として開館した。老人会の人たちだろうか、庭園で弁当を広げて楽しんでいた。
 野田の醤油づくりは、寛文元年(1661)に始まり、天明元年(1781)に醸造家7軒が造醤油仲間を結成し、関東産の濃口醤油を開発した。銚子と並ぶ一大産地に成長した。
 醤油の街・野田を散策し、愛宕神社に寄る。火伏の神・愛児の神「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕神社は月詣り」野田愛宕神社氏子会、と書いてあった。暫し、仲間と水彩画スケッチをする。
 東武愛宕駅から乗車し、流山おおたかの森駅で下車した。サイゼリアで、1本1000円の赤ワインを飲みながら、絵談議に興じる。
 明治の人は気骨があった。利害よりも理想に生きた。鈴木貫太郎は野田の生まれである。キッコーマンも野田だ。偉人を生む風土とは思わないが、染谷亮作もその1人である。野田は関宿藩の城下町だった。もうすでに遅いが、出来るものならその気概を学びたいと思う。

平成28年12月4日 
須郷隆雄