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夜明けまで、あと少し

日々思うことを不定期に綴る備忘録。

今日はちょっと番外編。

不登校のお話し。

これも、普通高校では多い問題。

各学年、数人はいます。

私、過去にクラスの2ケタの子が中学時代不登校経験ありという、
そして高校でも結構な日数を欠席してしまうという、
およそ普通高校とは思えない(あ、失礼!でも本音💦)クラスを受け持ったことがあります。

負荷がかかる行事の前後は誰かが休み始める。
するとつられるように、他の方々も休み始める。

当時、職員室で私は「趣味は家庭訪問」と、からかわれていました。
もうね、金曜日は家庭訪問の日。
5件や6件は当たり前。
遠隔地を巡って、家に帰ったら夜9時すぎなんてザラ。

その子たちの予後は人それぞれ。
通信制高校や支援校に切り替えた子。
休み多めながらなんとか卒業した子。
3年生では皆勤という快挙を成し遂げた子。
同じニンゲンが担任しても、様々。
対応に特効薬も絶対の正解もないということ。

※どの子も登校しちゃえばトモダチがいて、休んでいても誰かはLINEで繋がっていて、必要があれば会話内容を担任にも教えてくれる関係性がある中でのこと。もちろんイジメ由来のものではなかったので、以下、イジメ由来の不登校は除外したお話しです。

休みがちな子たちには、うっすら共通点。
結構な割合で診断済みの発達障害の子。

未診断ながら、直感として凹凸あるなって思う子もかなり多め。
時数がいよいよ危険になり、今後のケアを考える意味でウィスクⅢを実施すると…
だいたい確定診断には至らないものの激しめの凹凸がでました。
これつまり、怠けではなく「困り感」の表れ。

発達の凹凸が激しいと、定型のヒトにとってはなんでもない日常がストレスの固まり。
教室のざわめき、暑さ、寒さ、席替えで変わる光の当たり具合、決まった時程、予定変更…。

疲れているから授業中に居眠り。
ぼーっとしてたら連絡聞き漏らし。
テンパリモードの時に話しかけてきたトモダチへの逆ギレ。そしてケンカ。
家に帰ってもストレスで宿題が手につかず。
気晴らしのケータイいじりで夜更かし。
朝ダルダル。
それでも登校して、ストレス過多によりさらに集中不能。
さらに学者障害があれば、授業についていけなくてイライラ…。

負の無限ループであります。

そして、力尽きて1日休憩。

流れで2日目休憩。

行きにくく感じて、3日目、4日目…。

「怠けるな!」と親に叱られて大げんか。
気分がのらなくなったからと休憩延長…。

というパターンが多かった気がします。

「何が嫌なの?」なんて聞かれても、
明確な「これヤダ」はない。

ココロとカラダが疲れきっている。それだけ。

定型の子と同じ環境、同じ負荷だと、間違いなく感じるストレスは絶大です。
かといって、そこに配慮した環境を用意するのは、普通高校では難しいのが現実です。

疲れた時、無理せず休む。
連続して休まなくて済むように、電池切れの犯人探しをするのではなく、ただしっかりと休むというのもありなのかなぁと感じています。
「なんで、どうして」と責めず、穏やかに見守る作戦で、改善する子も一定数いますよ。

それでも通うのが難しい時は、通信制などを考えるのだってありです。

「普通」高校でなければダメなんて、絶対にありません。
そこにこだわって、心を壊してしまうことが一番怖いなぁというのが、現場の正直な感覚です。





発達障害のある子が、普通高校で学ぶ。

このテーマでは、発達障害の当事者側からの、
そうしたいけど周りとうまくやれるだろうか的な話題が多くなりがちです。

でも、受け入れる定型発達の子たちにとっても、
悩みはあるのだということを忘れてはならないと思います。
その子たちもみんな、まだまだ課題を抱え、大人の助けがほしい子どもたちなのだから、ね。

みんなが集中して何かに取り組む時、それができない子がいる。
話し出したら止まらない。
思い通りじゃないとキレて大変。
話しかけても反応薄。
「なぜ?」という戸惑いは、正直あります。

さて、その戸惑いをどう解消していくか。

遠巻きに見ている子もいれば、
「トモダチになろう」って声をかけ続けてくれる子もいる。
困っていそうな時にそっと助けてくれる子もいる。

近くで見守る担任としては、声をかけ助けてくれる子に「ありがとう」を伝え続けることが、結構大事かなぁと思います。

「声をかけて当たり前、助けてあげなさい」という“指導“は、やらされてる感を生むので、結果逆効果になってしまうことが多いようです。

「ありがとう」を伝えていると、助けてくれる子が増えてきます。
わかろうとする気持ちが広がっていきます。
休み時間中の、もめ事になりそうな小さな出来事も、大事になる前にそっと教えてくれたりします。
みんなのサポートで、少し反応が変わったり、出来なかったことができるようになったとき、一緒に喜んでくれるようにもなります。

そうなってきたら、ピアサポート完成!
お互いの素敵な学びが増えてきます。

こんなことがありました。
小中学校の修学旅行ではグループ行動が出来ず、自由行動の日は担任と過ごしたという生徒がいました。
せめて高校ではトモダチと行動させたいという保護者からの願いを聞き、どうしたものかと思っていたら…同じ中学出身の子たちが一緒の班で行動したいと自ら名乗り出てくれました。
自由行動中、もちろんこだわり炸裂の危機もあったようですが、他のグループも連絡を取り合い、フォローに動いてくれたりして、最後は笑って帰ってきました。
「大変だったねぇ。ありがとう」と伝えたところ、
「だってトモダチだから。俺らも勉強になったし」とのこと。


また、障害がある子だからと、他の子がしたら叱られることを叱らずにいると、溝が深くなってしまうことも多いと感じています。

知的障害がなく日常生活には適応しているから気付かれていない隠れADHDタイプの子がいた場合は、そういうのは特にNGです。
ADHDタイプの子の特徴として、平等にこだわるというのがございます。
同じことをしてるのに、人によって扱いが違うなんて、混乱のもとでしかないのです💦

障害があってもなくても、いいことしたら褒めるし、よくないことをしたら叱る。
発達段階としてまだ理解が難しいことだとしても、その語りかけだけはしなくちゃいけない。
続けていると、担任の語りかけを真似して、周りの子もキレてケンカするのではなく、粘り強く語りかけてくれるようになります。

これが「叱らないで。周りの子にもフォローさせて」という保護者の方針があると、他の子との関係構築が難しく、かえって厄介なことになる理由だったりします。

ただ、叱られることを、「邪魔にされている」という被害意識で捉えてしまうようになっている場合もあります。
小中学校でどんな経験をしてきたか…による部分でもあり、どストレートに聞けないデリケートなお話しであったりするので難しいのですが…。

発達障害があっても普通高校で学ぶという選択をするときは、これまでのこととこれからのことを分けて考えられるか、成長のための負荷に対して頑張る気持ちを持てるかどうかも考えておくとよいかもしれません。
その上で、これまでのこと、これからのことを担任とよく話し合って協力して臨むことが必須です。

定型発達の子も、高校生くらいになると、個人の性質や出来ることと出来ないことの凸凹がかなりはっきりしてきます。
いうならば、これ個性。

そして、そんな個性と個性のぶつかり合いや、補い合う経験を通して、人間関係を学ぶことも大切なこと。

だからこそ、発達障害があっても、いやだからこそ、普通高校へと考える方もいます。

ただ、おそらく定型発達の子よりもさらに大きな凸凹があることが、人間関係を構築する壁になることも、また現実。

よく「空気が読めない」という言い方をされますが…
彼らは「読めない」んじゃなくて、読み方が違うのよね。

彼らには一切悪気はありません。
ときにはむしろ良かれと思って、自分こそが正しいと思って、他人の地雷を踏んでしまうのです。

誰かとぶつかった時、悪気がないから謝らない。
彼らにとっては当たり前のこと。
周りの子たちにとっては、悪気があるかどうかよりも、
状況や事実に応じてお互いに譲り合ったり謝ったりするのが当たり前のこと。
ぶつかった経験から、他者への思いやりを学んでいきます。

誰かに助けてもらった時、相手が勝手にやったことだから感謝不要。
彼らにとっては当たり前のこと。
周りの子たちにとっては、自分が助けてもらったら感謝するのが当たり前。誰かが困っていたら助けてあげようと思う。その相互の繰り返しから、助け合える友だち関係を学んでいきます。

両者の「当たり前」がぶつかると、正直やっかいな状況になってしまいます。

他の人の考えや気持ちを考えてみること。
「ごめんなさい」が言えること。
「ごめんなさい」と言われたら相手を許せること。
助けてもらったら「ありがとう」が言えること。
時には誰かのために何かをして、「ありがとう」って言ってもらえる自分になること。

この辺りをどう指導するかが、担任の苦戦するところになってきます。
私個人の考えでは、いつかは社会で人と関わりながら生きていって欲しいからこそ、「ごめんね」と「ありがとう」だけは覚えて卒業して欲しいこと。

保護者の方にお話しして、そこは指導しますよと伝えた場合、反応は真っ二つに分かれます。

「ぜひ学ばせてほしい」という場合と、「それがこの子の個性なのだから、そんなの指導するよりも、周りの子たちにちゃんと気をつかわせてほしい」という場合と。

前者のケースでは3年かかりましたが、家庭内でも「ありがとう」「ごめんね」が言えるようになり、家族とのコミュニケーションの質があったかいものになった子もいました。
後者のケースでは、周りと散々ぶつかり、そのたびに保護者の方からも周りの子たちからも苦情をいただくという担任的にはかなり厳しい状況になりました。

せっかく健常の子たちと、対等な「同級生」として過ごすのだから、対等なコミュニケーションの練習をする場にした方がいいと思うのだけれど…。

どうなんでしょうね。
これも、正解のない問い。
そして、現場を預かる者の苦悩💦