【読書日記】国家の主権者と政治家の関係のあり方とは-「職業としての政治」 | ほぼ日blog~通勤読書で継続力を高めよう!~

【読書日記】国家の主権者と政治家の関係のあり方とは-「職業としての政治」

おはようございます。
本日の1冊はコチラ↓


「職業としての政治」 マックス・ヴェーバー 岩波文庫


今さらながら読んでみました。
今から約100年前に書かれた本ですが、
中身に色あせることがありません。

少し前の話ですが、
どこかの政治家が自衛隊のことを
「暴力装置」と呼んでいましたが、
本書に書かれている内容に起因しています。

『国家とは、ある一定の領域の内部で―この「領域」という点が特徴なのだが―正当な物理的暴力行使の独占を(実行的に)要求する人間共同体である、と。国家以外のすべての団体や個人に対しては、国家の側で許容した範囲内でした、物理的暴力行使の権利が認められないということ、つまり国家が暴力行使への「権利」の唯一の源泉とみなされていること、これは確かに現代に特有な現象である。』(P9)

政治は「まつりごと」と言うように、
かつては祭り=神による支配でした。
なので、宗教による影響が大きく、
長い時代を支配してきました。

それが王政に変わり、
やがて現代のような法治国家が
誕生することになりました。

ここでは、国家の支配が及ぶ範囲で、
決められた一定のルールを守る。
その中での自由が認められています。

その自由、権利を担保しているのが、
国家が独占する「暴力装置」です。
言い換えれば警察や軍隊です。

わが国の場合、軍事力は放棄していますが、
実質的に自衛隊は暴力装置になります。
国家を維持するための源泉であるのは、
まぎれもない事実です。

ところで、日本の場合、
国家の主権者とは誰でしょうか。
日本国憲法前文には次のようにあります。

”日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。”

国民主権を宣言しており、
国民の代表者=政治家によって、
国家の運営が行われることが
謳われています。

実際には国民が主権者でも、
権力を握ることになるのは政治家。
しかし、政治家という職業は、
選ばれなければ続けられません。

ここに「職業としての政治」の
落とし穴が存在します。

『人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段が握られているという事実、これが政治に関するすべての倫理問題をまさに特殊なものたらしめた条件なのである。』(P97)

説明するまでもなく、
これについての事例などは、
多く存在しています。

その昔、権力を握った教会が、
政治的に堕落した結果として、
宗教革命が起きました。

現代においては、
国民に選ばれた政治家というのが、
民主国家ではこれに該当します。

ただし、職業としての政治家は、
支持者や利権に絡むことについて
注力して働きます。

以前の自民党で言う「族議員」は、
この典型例ですね。

それ自体が悪いわけではありませんが、
しばしば倫理が問題視されます。

『政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。政治的な罪とは―もしそんなものがあるとすれば―こういう態度のことである。』(P84)

まさに今の政治を見ていると、
過去の問題ばかり取り繕って、
未来の話の進展がありません。

このあたりを本来監視すべきなのは、
われわれ国民ではないでしょうか。
ところが、今のところは、
それがなされていない状態です。

主権は国民にあります。
それを生かすも殺すも、
私たち一人ひとりの態度にあります。

1世紀経っても色あせない名著を読んで、
日本の将来を考えてみませんか?






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