木曜日担当大川です
今日は自分が高校三年の最後の大会の激励会の時にメンバーに入れなかった三年生の父親が涙流しながら話してくれた話を紹介したいと思います。
ピート・グレイ選手は、1915年にナンティコークで生を受けました。
メジャーリーガーになることが夢だったピート・グレイ少年は6歳の時に、列車から落ちた事故で利き腕の右腕を失ってしまいました。
父親に「片腕じゃ野球はできないよ。僕はメジャーリーガーになることなんか絶対できないんだ」と涙しながら叫びました。
しかし、父親は「何を言っているんだ。あきらめるな!人間、やる気になればできないことはないんだよ」と温かい励ましの言葉で、ピート・グレイ少年の夢と希望を繋ぎとめ、
ピート・グレイ少年は再び夢に向かい走りだしました。
その日から、ピート・グレイ少年の挑戦が始まります。
左手一本で球速に負けない為、【重くて長いバット】を使いました。
しかし、そのためには、さらに強い左手の筋力を必要とします。
ハンデキャップを克服するために涙ぐましい訓練を続けてそれを身につけたのです。
打撃にもまして大変だったのは守備でした。
フライをとるときにはグローブを胸に押し当て、指と右腕の付け根を使ってグローブをはずし、右脇にかかえると同時に左手でボールをつかんで投球しました。
ゴロの場合、ボールを軽く空中にはね上げ、その間に右肩の付け根に挟んだグローブから左手をはずし、その手で投げかえしたのです。
手を深くグローブに入れていたのではすばやく抜くことができないので、わざわざ指の短いグローブを作って、半分しか手を入れなかったのです。
しかも少しでも手の感触をよくし、手の出し入れを滑らかにするために、
グローブの中の詰め物はほとんどなく、革だけに等しかったのです。
まさに、ペチャンコで指の短いピートのグローブには、文字どおり、彼の汗と涙と血が染み込んでいたのです。
ピート・グレイは、草野球チームに入りますが、一度も練習には参加させてもらえませんでした。
しかしピート・グレイは不平をいわず、毎日玉拾いをし、一人で素振りの練習しました。そして、そのかたわら野球学校へ通いました。
野球学校へ通いながら、いろんな球団の入団テストを受けましたが、ピート・グレイはことごとく、入団テストに落ちてしまいました。
しかし、お父さんの言葉通り、諦めませんでした。
そして、雨の日も風の日も、黙々と練習を、続ける彼の姿を見て、心を打たれた学校の先生が
いました。
先生は、全米のDリーグの監督に電話をかけました。「うちにピートという、熱いやつがいる、
見に来てくれないか、お願いします。」その電話に触発され、Dリーグの監督が集まってきました。
そこでピート・グレイは全力でプレーを見せましたが、どこの球団も彼を雇おうとはしませんでした。
それでもピート・グレイはめげず、一途に努力する彼を幸運の女神は見放しませんでした。
24才の時、ニューヨークのセミプロ球団、「ブッシュウイックス」から声がかかりました。
ピート・グレイは「大好きな野球ができる。僕はセミプロ球団でもかまわない」喜んで入団しました。そして、そこで、素晴らしい成績を残し、その活躍を見ていた、マイナーリーグの「スリーリバース」という球団の監督が大抜擢します。
そして、何とピートはこの「スリーリバース」で打率.381で首位打者を獲得。
素晴らしい成績を残します。
このような相次ぐ大抜擢にも、全くおごること無く、努力を続けるピートに、次々と幸運の扉が開かれました。
1943年、AAAの「メンフィス・チックス」に昇格、そして彼は、打率333、本塁打5、盗塁68という素晴らしい成績を残し、ついにこのチームでMVPを獲得しました
そして、ついに夢の叶う時がやってきました。1945年大リーグの「セントルイスブラウンズ」がピート・グレイの採用を決定しました。
そして、初打席の瞬間がやってきました。
彼は大きく息を吸って、バッターボックスに入りました。
1球目、空振り、2球目、空振り、3球目、空振三振とピートの初打席は、三振に終わりました。 でもその三振を見て、スタンドの観客達は、総立ちになり、終わらない拍手を送りました。
試合後のインタビューで彼は、苦笑いしながらこう答えました。
「涙でボールが見えなかったよ・・・」
その後、彼は野球殿堂入りを果たしました。
「片腕のメジャーリーガー」として・・・。
彼の一番好きな言葉は
【A winner never quits.】(勝利者は常にあきらめない)
右腕を失ったとき、彼の夢への道はついえたかに見えました。
でも、彼は夢を諦めませんでした。
必ずメジャーリーガーになれると信じて・・・。
彼の名は、ピート・グレイ。
片腕のメジャーリーガーです。
みなさんこの話どうですか
当時私はこの話を顔をくしゃくしゃにして聞きました
高校野球最後の大会に息子がメンバーに外れたにも関わらず、その父親はメンバーに入った選手達に熱く語ってくれました
ほかのメンバーもメンバーに入れなかったみんなも泣きながら聞いてました
今でもあの光景は鮮明に覚えています
私の高校野球人生の思い出のひとつです
最後に大川写真館
『ある国の王様』