大蔵両国橋 則松馬洗場橋 市立中央図書館開館 皇后崎クリーンセンター稼働 西港新中央卸売市場開場 自転車専用道 おひさまのいえ 野犬 折尾児童館 テツビル 公衆はかり 初めての地下道 新中央卸売市場 すいか 昔の中井・境川 皿倉山八文字焼き 小池学園 折尾サンリブ・大浦 黒崎駅前・藤田商店街 若松商業高校

【前書き】
北九州市八幡西区にある鉄竜町と鉄王町。経済発展が目覚ましい昭和三十年代、北九州第二の繁華街だった黒崎から南西に3キロほど離れた田んぼが広がる広大な土地を、当時の八幡製鉄が買収。大規模社宅群(穴生社宅)を建設し、鉄を冠するちょっと変わった名前の新しい町がふたつ生まれてます。

今から四、五十年前。私は1歳になる前から小学5年までの約10年間を、かつて鉄竜に存在した新日鉄社宅群の中で過ごしました。その後、若松区高須へ転居。中高生の頃は若松西部と浅川・折尾、芦屋・水巻あたりが生活圏。

また、折尾と戸畑には祖父母宅があり、幼少期は弟の長期入院もあり、戸畑に長く預けられてました。戸畑の父方祖父も製鉄マンで、八幡製鐵をかなり身近に感じる環境で、北九州市西部の街を見ながら育っています。

その後北九州を離れて四半世紀。社宅は取り壊されてなくなり、街の様子も随分と変わりました。ネットにも情報が少ないので、思うがままにココに残してみることにしました。写真や記憶を頼りに過去を振り返ることが多かったんですが、既に云十年が経過。あやふやな部分も多く、生前については分からないことだらけ。徐々に書籍なども参考に。

中でも市政だよりなど広報は、当時の地域社会を知る上で興味深い情報がたくさんあります。ただアチコチに情報が散らばってるので、以下では自分用に北九州西部メインでスクラップとしてまとめておきます。


S50/1975 北九州市政だよりから
→ 昭和三十年代から四十年代にかけて、公衆衛生・労働安全・環境保全などへの意識を高めてきてます。

→ 昨年GWにお邪魔しました。閉館してたけど。

▼八幡西区南部・畑貯水池などの思い出ばなし

→ 当時は外交員訪問もスタンダードだったんでしょうね。自動車免許を持つ奥さまがまだ少なかったでしょうし。

鉄竜の穴生社宅には、あひるの洗濯屋クリーニングママ号(こんにちはー、ガッガガー♪まいどわりー、ガッガガー♪)が来てましたが、うちはまとめて外交員に出してたようです。

そういえばビールとクリーニングは穴生社宅から高須へ転居後も、まとめてたくさん注文してたのもあってか、同じ個人店がわざわざ車で来てくれてたそうです。

▼八幡西区茶売団地と戸畑区井堀団地

▼門司のみなと祭。この雰囲気、ごちゃごちゃしてて好きです笑。花火は門司競輪場だったんですね。

▼若松恵比須まつり
→ 八幡起業祭・戸畑祇園祭とあわせ、洞海三大祭りって言うんですか?。昔、祭りの日になると、洞海湾が帆船でいっぱいだったんだとか

▼高見神社近くの公園。藤棚の下かな?

▼黒崎駅前
どこでしょう?噴水近く?

▼戸畑区西中原の保育所

▼戸畑の青年学級。平日夕刻開催。対象は15歳〜

▼オイルショックの余波と物価上昇に便乗した異常な値上げへ対処が継続されており、この年も懐かしい店舗たちが名を連ねてます。
↓飛ばしながら載せてます。
このリスト、やたら食販店てのが目に付くけど、個人名でなく地名がついてるのも個人経営?





▼市役所に続いて新設した中央図書館もデート推し

▼景観に配慮して、お花を無料配布

▼中学校校区内だけど、こんな祭りやってたかなあ?。600年も長生きしたという神話のような伝説を作ったのはどちら様でしょ?笑

▼梅雨前に毎年恒例の土砂崩れ・浸水注意喚起。まだまだ開発真っ盛り。造成地など怖いです。
↓西区は別当、上上津役、折尾大膳、小嶺、折尾南鷹見、浅川三ツ頭、黒が畑。

→ かつての鉄竜・鉄王にあった穴生社宅にも歩道と自転車道が分かれた道が整備されてましたが、あの道は、この計画の一環なんでしょうか?
となると、私が物心つく・つかない頃に歩道工事?(あるいは、まさか社宅建設当初から整備?)

↓この写真と似たような感じでした。歩行者レーンと自転車レーンの間に段差有り。
と思ったら、これ穴生ですか!?

自転車専用レーンは、鉄王・鉄竜の宮川沿いにあったけど、洞海湾方面へ北上した穴生まで繋がってたのかな?。西区役所方面も?
なんかそれっぽい気がしてきました。

▼コレ六年生が書いたの?嘘でしょ笑

▼SGマークを市政だよりで通知。公衆衛生や安全、料理などなど行政が市民を啓蒙してます。

→ 左側のデザインコンクリートブロック塀。かつて祖父母宅があった戸畑中原の住宅街でよく見かけました。デザインに個性が出て、色んなバージョンを楽しめます。もうあまり見かけなくなったけど、古い町並みなどで見かけると、何だかココロ踊ります。

→ 桃園ですかね。

▼楠橋電停付近を老人クラブの皆さんが、揃いも揃ってジャージ着て、お掃除してます。
そういえば、うちの爺さんも青いジャージ着て、黄色いヘルメットかぶって、原チャ乗ってたなぁ

▼産医大が起工。皇后崎クリーンセンターが稼働。

▼折尾児童館だそう(北鷹見町)

▼こちらは枝光児童館(日の出町)

▼西鉄から見放された?若松でよく見かけた市営バス。八幡ではあまり見かけなかった気がしますが、西区役所まで乗り入れることになったんだそう。バス停を移動?。黒崎駅から井筒屋前を抜け、厚生年金病院から右折したところですかね。

▼青山小学校

私は青山幼稚園児でした。運動会は園庭ではなくて、隣の青山女子商業高校(現星琳)のグランドでやってましたね。

→ 今に受け継がれてます。

▼公衆はかりなるものが、折尾本城の東部総合食料品センター、テツビルストアー穴生店、黒崎井筒屋に設置されていたそうです。穴生社宅の隆盛が窺えます。
はかり売りもメジャーな時代。明らかに量が少ないとか、まだそんな時代。

→ 駅周辺?明治学園・工大まわり?



▼九州女子大の先生が、一日計量取締員に。やってんのは生徒でしょうね。


▼昭和十年 八幡東区中畑 区画整理住人第一号さん
→ 中畑ってどこ?

↓河内貯水池へ続く板櫃川の1つ東。槻田川沿い・八幡高校そばなんですね


▼若松区大字畠田の若松商業高校にて


▼則松の馬洗場橋あたりなんだとか。すんごい名前。どこかな?
↓名前は現存してて、3号線の手前、金山川の分流にかかる橋でした。この分流は水害対策で堤防工事する前の、旧金山川本流かな?
このあたりは馬車が走っていた明治時代、川渡し舟も運行していたようです。間違いなくココで馬洗ってたね笑

▼サンリブ折尾・大浦あたり
↓埼玉大 谷先生の今昔マップより当時の空撮。当時まだサンリブ折尾は池でした。

▼西港、新中央卸売市場開場

▼市営バス財政は相変わらず厳しい。。

▼玄海青年の家


→ あれ?また青山小学校?。さっきのは運動会ぽかったからこれは別日?。市政だより関係者の子どもが通ってますねぇ。間違いない笑

▼楠橋の池にて

▼これって「おひさまのいえ」ですよね。1年後?2年後?に青山幼稚園児だった私も連れてかれました。写真だけ残ってて、どこだろ?と思ってたら、転校先の中学校区内で再会してビックリ。

▼旧電車道、大蔵にかかってた大きな陸橋整備工事の案内。河内貯水池の入口だし、よく覚えてます。
↓その後、路面電車がなくなり。この歩道橋もなくなり。だいぶ前、帰省時に工事してたのを見かけたけど、すっかりキレイになってる。

▼毎年夏休みガイド的な紙面が作られてます。下図は市西部を抜粋。



▼え?この年にできた小倉勝山の地下道が、市内初の地下道?本当に??



→ こんだけスイカがウジャウジャしてるの、見たことない笑

▼小倉北区西端の中井
→ 中井は、祖父母宅があった戸畑区中原と隣接してて、幼いころ公園などに連れてってもらってました。小倉と戸畑を隔てる境川の堤防整備前のお話。のどなか景色だったんでしょうね。

▼まだまだ野犬フィーバー続いてます。前年の野犬苦情が2200件ですと!?

▼門司の和布刈は塩水プール。芦屋にもありました。

▼皿倉山の八文字
→ こうして読むと、先人たちの苦労が改めて偲ばれます。。父が幼少期を暮らした戸畑鞘ヶ谷の自宅まわりにも焼夷弾が落とされており、防空壕へ向かうために自宅を出たところ、振り返ると火の海だったそう。少し遅ければ助からなかったかも。

▼なんだか目を引くので載せます笑

▼工業都市北九州は、とんでもないペースで水消費が拡大してます。これに応えるため、市はダムや取水場や水道管を毎年拡大。鱒渕ダム・力丸ダム等々




→ いよいよ、遠賀川の河口堰整備へ。

↓母校浅川小学校近く、浅川中学校の裏手です。
浅川中学校までは八幡西区、小池学園は若松区小敷。昭和五十年当時、辺りはまだ田舎でした↓

▼一番高い皿倉山。昔から人々の間でよく取り沙汰されてた帆柱山とごちゃごちゃになってたというお話。

▼帆柱キャンプセンター
→ 帆柱は現役だけど、令和六年になって市内のキャンプ場は門司矢筈山と八幡帆柱山に整理集約されたんですね。市のリーフレット↓

▼戸畑区の下水道整備は他区よりも早いペースで進んでるんだそう。

▼穴生浄水場のようです。


→ 結構な人数ですね。

▼やっぱ「おひさまのいえ」ですよね
↓ほんとまだ何にもない。
↓先生、フレアジーンズにブーツはいてる。



▼大正期、若松が石炭で賑わってた頃の思い出ばなし


→ お父さまは、どこぞの華族ですか?

▼起業祭、大谷広場での餅つき


→ 若松だけじゃなく八幡西区も移動図書館が巡回してたんですね。


▼モノレールのお話

▼ここから昭和五十年を振り返り



▼大谷公民館

→ 固定電話で情報を流してました。そういえば中学のとき、電話で昔話が聞ける!?ってなって、一度だけ聞いてみたのを覚えてます。職員室前の公衆電話だったかな?
小さな子が親がいないときに家電で延々と聞いてたら電話代がヤバいことになる笑

▼右の子のハンドル、魔改造されてます笑

▼後ろに「藤田商店街」とあります。三角公園を抜けた先あたりかな?




おしまい