私は小学五年までの約10年間、北九州市八幡西区にある一風変わった鉄竜という町で過ごしました。当時鉄竜は62棟もの新日鉄社宅群で埋め尽くされた町でした。その分かりやすい名の町は、近隣の萩原小学校・穴生中学校と、それら新日鉄社宅群と共に誕生した新しい町です。

明治から昭和にかけ、あちこちに似たような官舎・社宅が作られました。北九州が八幡製鉄/新日鉄と共に発展した時代です。

そこで過ごした幼少期からの思い出と、穴生・鉄竜・黒崎の変遷について別の記事で振り返ってます。(よろしければコチラです↓)

その過程で北九州/地元の成り立ちについて気にかかりましたので、元々歴史嫌いで基本的な知識も足りてませんが、地図/Wikipediaなど簡単に調べられる範囲で、少し振り返ってみることにしました。

きっと役所とかがまとめた情報があちこちに転がってるんでしょうけどね。自分の気の向くまま好き勝手に整理しちゃいました。

で、少し振り返るつもりのはずが、気づいたら飛鳥時代から…

もしよろしければお付き合い下さいませ。

※写真が多過ぎてネット環境によっては一部読み込めない場合があるようです。リロード/更新下さいまし。



701年/大宝律令/飛鳥時代
飛鳥時代の大宝律令以前から国領として筑紫国(福岡県北九州市戸畑区以西の福岡西部と福岡南部から成る)が存在していたそうです。八女地方が本拠だったようで四、五世紀以降の古墳がいくつも見つかっています。

それが今から約1300年前、701年の大宝律令によって、西部の筑前国と南部の筑後国に別れたそうです。律令後、筑前国になってからはご存知のとおり大宰府に国府が置かれます。

一方、北九州市小倉以東の福岡東部は豊前国。大分県国東半島の付け根あたりの宇佐市、福岡県田川市あたりまで広がっていました。

その後長らく明治時代の廃藩置県まで、これら筑前・豊後はそのまま続いたようです。北九州としては、飛鳥時代の昔から明治時代まで、小倉以東と戸畑以西でお国が分かれていたことになります。(方言にもその違いが現れていたとか)

ちなみに飛鳥時代の大宝律令もごく一部ですが、明治時代まで1300年も続いたものがあるそうです。すごいですね、盲腸みたいじゃなくて本当に運用されてたのなら(Wikipedia:太政官





1870年/明治3年/今から150年前
(廃藩置県一年前)
ネットでサクッと見つかる中で一番古い地図。国土地理院が公開している古地図ライブラリより、1870年/明治3年に伊能忠敬地図を原図に作成された官板実測日本地図というものがあります。廃藩置県がこの翌年なので、まだ県ではなく、江戸時代そのまま藩・国での記載です。

▼福岡県北部広域
先述のとおり、戸畑から博多・前原までを含む筑前国と、小倉から大分の宇佐や筑豊の田川を含む豊前国に分かれております。
筑前国と豊前国は北九州市の皿倉山あたりから筑豊の福知山あたりまで続く福知山塊がその境界となっています。

ちなみに北九州〜田川郡/嘉麻郡あたりまでの地域は、大戦後のエネルギー革命まで長年国内最大の石炭産出量を誇った筑豊炭田です。Wikipediaによれば既に室町時代に北九州市八幡西区香月で住民が石炭を発見し薪より効率的な燃料として使っていたとか。そんな記録が残ってるんですかねぇ。。この地図の2年後、1872年から政府が炭鉱開発を加速。民間も参入し、筑豊炭田は戦後のエネルギー革命まで日本経済を支えていくことなります。




▼北九州市周辺
更に少し拡大すると、北九州は当時、西側が筑紫国遠賀郡、東側が豊前国企救郡だったことが分かります。そしておそらくは、この地図よりも遥か昔から長らく遠賀・企救と呼ばれていたものと思われます。→テキトー過ぎました。ごめんなさい。
現在の遠賀郡は北九州市を外れた西側の自然が多めな一部地域ですが、当時は北九州西部全域を含む広大な範囲を占めていました。

ちなみに、この地図の翌年の廃藩置県に始まる地方自治制度・行政区画の再編成はしばらく迷走というか試行錯誤が続いたそうで、市町村制に落ち着くまでには少し時間が必要だったようです。

なお、行政区画としての郡も、飛鳥時代の大宝律令が始まりのようで、郡司・郡長を置いた時代もあったようですが、明治初年では単なる地理的区分に留まっていたそうです。(Wikipedia:郡

しかし、この地図から8年後、1878年 郡区町村編成法の施行により北九州西部に行政区画としての遠賀郡が発足。芦屋に郡役所が置かれていたそうです。

無知な私には少し驚きだったのですが、このように、北九州西部の変遷を知ることは、遠賀郡の変遷を知ることでもありました(Wikipedia:遠賀郡




▼北九州西部
更に西部を拡大するとこんな感じ。1870年ですから1901年 官営八幡製鉄所 操業開始31年前です。
私が幼少期を過ごした八幡西区鉄竜付近には黒崎や熊手、上津役などが記載されています。

この地図の3年前にあたる明治初年度1867年の時点で北九州西部、当時の遠賀郡に存在していた村として次が挙げられてます。私の故郷にあたる穴生も、思春期を過ごした浅川・高須も、祖父母が暮らしていた戸畑・折尾も、当時からそれぞれが村として存在してます。

上上津役村、下上津役村、畑村、大蔵村、前田村、藤田村、小嶺村、枝光村、尾倉村、熊手村、鳴水村、楠橋村、市瀬村、穴生村、陣原村、引野村、馬場山村、則松村、香月村、折尾村、永犬丸村、藤木村、浅川村、塩屋村、小敷村、山鹿村、有毛村、乙丸村、大鳥居村、高須村、蜑住村、修多羅村、竹並村、小石村、頓田村、畠田村、安屋村、戸畑村、中原村、小竹村、二島村、若松村(現・北九州市)、本城村、上底井野村、中底井野村、下底井野村、今古賀村、高倉村、内浦村、海老津村、糠塚村、黒山村、尾崎村、原村、手野村、波津村、三吉村、吉木村、松原村、野間村、上畑村、山田村、戸切村、虫生津村、別府村、鬼津村、小鳥掛村、木守村、垣生村、中間村、広渡村、立屋敷村、吉田村、岩瀬村、島津村、猪熊村、若松村(現・遠賀町)、芦屋村、杁村、古賀村、二村、下二村、伊佐座村、頃末村、払川村(Wikipedia遠賀郡より)

 



1889年/明治22年
先程の19年後/今から131年前
明治22年 市町村制が施行されると、これら村々の合併ブームが訪れ、たくさんの村が姿を消すことになります。

枝光・尾倉・大蔵が八幡村に、熊手・鳴水・藤田・前田が黒崎村に、といった具合に。私の故郷にあたる穴生村も、思春期を過ごした浅川村・高須村も単独村ではなくなりました。

そして、いよいよ福岡に鉄道が開通します。
翌年の明治23年、鉄道国有化前。九州鉄道によって福岡東部と南部を結ぶ博多ー久留米間が開通します。(Wikipedia:九州鉄道

更にその翌年、福岡東部と西部を結ぶ博多ー門司間が開通します。ただし、小倉ー黒崎間は海からの砲撃を警戒し、海岸沿いの戸畑・八幡を通るルートではなく、内陸の荒生田・大蔵を通るルートに敷設されました。(Wikipedia:大蔵線
しかしその11年後、明治35年/1902年。官営八幡製鉄所がある現在の戸畑・八幡ルートが開通します。(9年後の1911年、大蔵線は路面電車の開業に合わせて廃線となります。開通から僅か20年後でした)

また同年に当時の筑豊興業鉄道によって、石炭を筑豊から若松港へ運ぶため若松ー直方間が開通します(その後、九州鉄道に吸収された後、筑豊本線として国営化)

なお、鉄道開通以前から既に筑豊炭田の石炭は広く活用され始めており、その輸送は船が主力でした。このため洞海湾若松半島先端に位置する若松と、天然の運河であり、中間・水巻・芦屋にも炭坑があった遠賀川の河口に位置する芦屋は、鉄道敷設前から港町として発展したと思われます。明治初頭、遠賀郡役所を芦屋に設置したのも理解できます。

▼当時の若松。八幡・戸畑よりも一足先に発展。

▼当時の芦屋。少し後の地図ですが同じく発展。
しかし鉄道開通により若松と芦屋のその後は大きく変わります。若松は更に発展、北九州西部で最初に市制移行します(東部まで含めると市政移行は門司が一番先です)。

一方、芦屋にも中間以北の遠賀川沿い一帯に炭坑が存在し、日本炭礦が社宅や専用鉄道を設けるなど賑わっていたようですが、その後の発展にブレーキがかかります。

打開しようと後年になって遠賀川から分岐する鉄道 芦屋線を敷設したそうですが、14年間で廃線になってます。






1920年/大正9年
先程の31年後/今から100年前
江戸時代が幕を閉じ、廃藩置県で福岡県が誕生して約50年、鹿児島本線と筑豊本線が開通して約30年が経っています。

官営八幡製鉄が約20年前に操業を開始しており、筑豊炭田もうなぎのぼりだったことでしょう。

筑豊炭田から石炭を輸送する鉄道インフラが整い、北九州西部が八幡製鉄所に代表される工業都市として、発展していく様子が地図からもうかがえます。

北九州西部は長らくほぼ全域が遠賀郡に属していましたが、約30年前の市制・町村制施行後、村の合併ブームを経て、村が町に、町が市になっていきました。

この地図の6年前1914年に若松が、3年前1917年に八幡が、そして4年後1924年に戸畑が、それぞれ市制へ移行し遠賀郡から独立しています。このようにして、大正になってから遠賀郡は縮小していくことになります。

ここからは北九州西部を、戸畑、若松、八幡、黒崎、穴生、折尾、浅川・高須の順で拡大してみたいと思います。





遠賀郡戸畑町(現 戸畑区)
1920年/大正9年、戸畑市になる4年前です。私の父方の祖父母一家が長年在住していた地域で、父も祖父も製鉄マンでした。弟が幼少期に病気で長期入院したため、長らく祖父母に預けられていた私にとって思い出深い町です。

官営八幡製鉄所は戸畑町にも工場を構えており、官営のためか分かりませんが、地図には製鉄所とだけ記載されてます。戸畑駅はこの18年前の1902年に開業しており、駅周辺がかなり発展している様子がうかがえます。(Wikipedia:戸畑市
この地域には八幡製鉄所の官舎・社宅がたくさん建設されていき、祖父や父のほかにも多くの製鉄マンが暮らす地域となっていきます。

対岸の若松と共に戸畑も、1804年の中間から洞海湾へ続く堀川運河開通などもあって、国鉄鹿児島本線開通前からある程度栄えていたと考えられます。

地図中段右手には、炭鉱事業と製鉄事業に貢献する人材を育成するため、日本初の4年制工業専門学校として明治40年に設立された明治専門学校とその官舎も見えます。(現九州工業大学。設立当時は私立でしたが大正に官営化)





若松市(現 若松区)と 
八幡市(現 八幡東区)
1920年/大正9年、筑豊本線の始点/終点である若松駅と若松港を擁する若松市は、筑豊本線の開通から29年が経過し、筑豊炭田と共に港湾都市として発展しています。(Wikipedia:若松市

対岸の戸畑を結ぶ若戸大橋はまだなく、開通はまだ40年以上先の話です。地図中央には旭硝子の敷地も掲載されてますね。
地図右手には遠賀郡と記載しましたが、地図中央右手から下方にかかる枝光・大蔵・尾倉はこの地図の30年前に既に八幡村として合併しており、そのまま八幡町→八幡市と発展しています。

また官営八幡製鉄の敷地内には、専用線路が引き込まれているのが分かります。更にこの敷地と先の戸畑の敷地を結ぶ専用線が今も運行しており、「くろがね線」と呼ばれますが、その開通はこの地図から10年後の1930年だそうです。

北九州市港湾局ホームページに、大正期の若松港の写真が掲載されています。


▼若松・戸畑の変遷まとめ
戦前までに開発が全域に及んでます。
沿岸部の埋め立ては広域にわたっており、戦後も続きます。北九州は地震が少ないというのが強みですね。


▼八幡製鉄所周辺の変遷まとめ
八幡製鉄所の建設で一変。1920年代までに開発が一気に全域に及んでます。大規模な埋め立ては戦前に収束。





遠賀郡黒崎町(現 八幡西区)
私が幼少期、両親共に週末や夜によく出掛けていたため、黒崎も様々な思い出がつまった町です。

小倉に次ぐ北九州の繁華街となる黒崎ですが、1920年/大正9年時点では、まだ八幡市の一部ではなく、前田・藤田・鳴水・熊手を含む遠賀郡黒崎町でした。(Wikipedia:黒崎
黒崎町も6年後、1926年に八幡市に編入されます。現 八幡西区は、黒崎のようにこの当時八幡市より西にあって編入された町村で構成されています。現 八幡東区は、八幡市と南東からの編入組で構成されています。
 
ちなみに同年、明治に芦屋に設けられた遠賀郡役所は廃止され、行政区画としての遠賀郡は消滅します。

更に昔を振り返ってみますと、現在から遡ること400年、1615年に黒田長政が一国一城令により黒崎城を廃城して以降、黒崎は小倉と長崎を結ぶ長崎街道の筑前六宿 最大の宿町として栄えたそうです。その当時から熊手では市が開かれ、商業が盛んな地域だったようです(当時から熊手銀天街のような商業地があったと考えると、ちょっと不思議な感じ)。加えて当時、九州と大阪を結ぶ船が小倉港と黒崎港に就航していたそうです。

なお、黒崎駅は1920年/大正9年当時の中心地からやや西側に離れたところに開設されており、駅東側・南側にはまだ田園が広がっているのが地図で分かります。駅から数百メートル手前の藤田や熊手は昔から栄えており、八幡製鉄も発展する中、駅周辺の開発は時間の問題という状況でした。


▼黒崎の変遷まとめ
明治以前から藤田・熊手は栄えており、八幡製鉄操業後、戦前までに開発は全域に及んでます。





遠賀郡上津役村大字穴生
(現 八幡西区穴生周辺)
私が幼少期を過ごした故郷が穴生地区にある鉄竜という町なのですが、まだ存在しません。

1920年/大正9年当時、この地域にはまだ田んぼと丘陵が広がっており、長閑な田舎の村だったことが地図からも分かります。
地図中央の丘陵で東西が分断されており、黒崎に近い丘陵の東側は、戦前に開発が進みますが、穴生を含む丘陵の西側の開発が本格化するのは戦後。八幡製鉄の巨大社宅群建設を待たねばなりませんでした。

地図から更に遡ること53年、明治元年/1868年時点ではこの地域は穴生村でした。なお、近隣の村として当時の記録があるのは引野村と陣原村であり、萩原、皇后崎など広範囲が穴生村だったようです。

その21年後、明治22年/1889年に町村制施行によって、穴生村は引野や小嶺や上津役などと共に上津役(こうじゃく)村として併合されます。これに伴って穴生村という存在はなくなり、大字穴生として識別されます(地図に同じ)

更に48年後(地図から17年)、昭和12年/1937年に穴生を含む上津役村は八幡市に編入されます。やがて大字穴生という識別もなくなり、穴生地区に含まれていた集落はそれぞれが町となっていきます。
 
更に21年後(地図から38年)、昭和33年/1958年に鉄竜・鉄王一帯の広大な土地に八幡製鉄の社宅群が次々と立ち並び始めます。それにあわせて開校した萩原小学校・穴生中学校と一緒に、私の故郷 鉄竜町は誕生しました。この開発により穴生地区はそれまでの長閑な農村地帯から一変しました。明治幕開けから90年後、第二次ベビーブームの頃です。

そして現在、穴生という地名は住所としてはごく限られた場所を指しますが、実用上はもっと広い範囲を指して穴生と呼ぶことが多々あります。萩原も鉄竜も相生も鉄王も青山も鷹の巣も皇后崎も、私の中では穴生です。私だけでなく、よそから鉄竜の新日鉄社宅へ転居してきた両親も、ご近所さんも、友人も、そしておそらくは今暮らしている方も。

今まで意識することなく、当たり前に穴生という表現を使ってきましたが、明治初期に既に存在していた遠賀郡穴生村が現在まで受け継がれていたことを知り、ちょっとした感動でした…
が、後から見たらWikipediaにもサラッと書かれてたんですけどねw(Wikipedia:穴生


▼穴生地区の変遷まとめ
明治以前から戦後まで大きく変わりませんが、1950年代終盤から八幡製鉄による土地買収と新日鉄社宅群の建設により一気に開発が進みます。





遠賀郡折尾町〜中間
(現 八幡西区折尾、中間市)
私の母方の祖父母一家が東京から引っ越してきてから長らく折尾で暮らしており、よく遊びに出掛けていました。更に折尾は通学や出張でも通ってましたので、ここも思い出がたくさんつまった場所です。

折尾駅は鹿児島本線と筑豊本線が交差し、人の往来が多い町として発展していきます。

▼1930年頃の折尾広域
折尾西側の遠賀川沿い、中間から水巻、芦屋にかけて炭坑が広がってます。日本炭礦(ニッタン)の専用鉄道も敷設されていました。

また折尾には鉄道開通以前から石炭を洞海湾経由で若松港へ運ぶことができる堀川運河も通っており、それなりに栄えていたと思われます。

地図下方、中間市にある中鶴炭坑は当時筑豊炭田(このあたりの炭坑を含む)の中で筑豊御三家に次ぐ出炭量を誇った大正鉱業の主軸炭坑だったそうで、戦後のエネルギー革命までその隆盛は続いたそうです。ちなみに筑豊御三家とは筑豊炭田で財を成し、政界進出を遂げた筑豊に地盤を置く財閥を指し、麻生太郎さんの麻生財閥はその一つです

堀川運河についても、少し調べてみました。
始まりは今から400年前。本流である遠賀川はそれまで度々洪水に遭っていたようです。堀川運河は1621年に黒田長政の命によって着工。途中、財政難などで100年間ほど中断したものの、享保の飢饉などもあって工事再開し、数々の難を排し、中間から折尾を抜け洞海湾につながる全長12キロが完成したのが1804年。なんと着工から184年という難産だったようです。

筑豊本線開通まで、石炭をはじめ、様々な物資を輸送する重要な運河として活用され、当時は五平太船と呼ばれる船が盛んに往来していたようです。(リンク:堀川の歴史

▼折尾駅と南側の変遷まとめ
堀川運河や折尾駅開業によって駅周辺は早くに開発されてますが、開発が広範囲に及ぶのは戦後になってからでした。

▼折尾駅北側の変遷まとめ
明治以降も長らく丘陵のままですが、1950年代に浅川方面(地図左上)と折尾駅を結ぶルートが開けていき、1970年代になると一気に広範囲にわたって造成・開発が進んでる様子が分かります。



遠賀郡島郷村 浅川/高須
(現 八幡西区浅川/若松区高須)
私が小6から高校にかけて暮らしていた浅川・高須を含む折尾北側、若松西端の地域です。地図枠外ですが、すぐ西には遠賀川が流れています。

1920年/大正9年当時、集落はありますが多くの野山の合間に田園が広がる田舎の風景が地図から窺えます。
浅川・高須は今ではすっかり開発されてしまってますが、当時は折尾町・鉄道から離れており、開発が進むのはまだしばらく先。道路整備や自動車普及が進んだ30〜50年先で、浅川が1950〜60年代、高須は1970年代以降になって開発が本格化していきます。

現在は八幡西区の浅川ですが、当時の浅川は広い丘陵を隔てた八幡側の折尾町よりも、若松側の高須や大鳥居・塩屋などとの生活・文化の交わりが深かったはずです。

この地図から31年前の1889年、
浅川村・高須村は折尾村ではなく、若松側の江川村に併合されています。

9年後の1908年(地図の12年前)、
洞北村と合併して島郷村になります。地図に同じです。

それから23年後の1931年(地図の11年後)、
浅川・高須を含む島郷村は若松市に編入されます。

更に32年後の1963年(地図の43年後)、
北九州市誕生に伴い、若松区浅川・高須になります。

このように現在は八幡に属する浅川地区ですが、長らく八幡ではなく、名実共に若松に属していた訳です。

そして更に11年後の1974年(地図の54年後)、
小倉区と八幡区が分区された際、浅川地区の行政区画は見直され、若松区浅川から八幡西区浅川に変わり、現在に至ってます。今から46年前の出来事です。

昔の地理・生活文化圏に紐づいて長らく若松に属していた浅川地区でしたが、道路整備と宅地造成が進み、八幡側の折尾との物理的境界の意味合いが薄れ、行政的境界の合理性も失われ、八幡西区に編入されたと思われます。

一方、

私が1980年代に鉄竜を離れて暮らし始めた高須ですが、引越当初から既に道路整備も造成も一段落し、住宅もそれなりに立ち並んでいる状態でした。
(高須に隣接する青葉台はまだ造成前で、高須が生まれる前の緑いっぱいの広い丘陵の姿そのままに、江川地区と高須地区を隔てる形で残されてました。青葉台が開発されるのはまだしばらく先です)

転居当時、まだバスは一時間に2〜3本、食料品の調達先は現在の高須サンリブの敷地をめちゃくちゃ小さくした土地に小さなマルショクがあるだけ。更地も多いのでウサギやキツネが道路を横切るのをよく見かけましたし、自宅の隣や裏にも短い草が生えてる更地が残ってて蛇も出ますし(うちのネコが蛇にやられないかと心配してた笑)、区画間にある小さな崖のような部分からは、土になってしまった貝の化石がうじゃうじゃ出てきます。鉄竜に比べるとめちゃくちゃ不便な場所でしたが、子どもの私たちにとっては新鮮で面白い場所でした。

土地区画整理事業として造成した土地を宅地化して地主に戻すのを「換地」と言いますが、事業の過渡期にこの「換地」というキーワードが住所の一部に入り込み、一時的ですがあまり見かけない特別な表記になります。

現在高須は東西南北4つの町に分かれてますが、転居当初の住所は、若松区大字高須換地***番地といった表記でした。転居前の萩原小の友だちに年賀状を出すときに変わった住所だったので、珍しかったのか恥ずかしかったのか、記憶に焼き付いちゃったようです。

しかし、それからあっという間に住人が激増し、バスが増便され、サンリブや病院や飲食店などが次々と建設されていきました。それにあわせて生き物たちを見かけることも少なくなっていきました。

高須小・中学校の開校は、残念ながら私の代はギリギリ間に合わず、小学校は区を超えて八幡西区の浅川小へ、中学校は長閑な田んぼが広がる景色を若松方面へ5キロほど進んだ先にあって、田んぼに囲まれた洞北中学校まで、自転車で通って卒業してます。

なお、洞北中学校の校区域は、同じ北九州の中でもそれまで私が暮らした地域で接してきた方や親族とは方言が違っており、語尾に「ばい」をつけます。全く聞いたことがない訳ではなかったと思いますが、当初すごく違和感を感じていたのを覚えてます。まぁすぐ慣れて家族丸ごと感染してしまうんですけどねw

高須地区は2007年現在、青葉台も開発されて、北九州市では最大規模のニュータウンにまで大きくなってしまったそうですね。初期の分譲地区(つまり私たちの世代が移り住んだ頃・地域)は30年程度経過し高齢化が進んでるともあります。


▼浅川・高須の変遷まとめ
1950年代以降に浅川と折尾を隔てる丘陵の開拓造成が進み出し、その後1970年代から一気に広範囲にわたり造成・開発が進んでいることが分かります。




1963年/昭和38年
五市合併・北九州市の誕生
こんなそんなで国も違えたりしていた門司・小倉・若松・戸畑・八幡の5つの町がそれぞれ町から市へ発展し、それら5つの市が合併することで、現在の北九州市が生まれました。今から57年前の出来事です。その11年後に小倉が北区と南区に、八幡が東区と西区に分区され、現在に至ってます。

最後に洞海湾の明治からの変遷をまとめます。北九州市西部の発展と共に、洞海湾は激しく埋め立てられていき、随分と狭くなってしまいました。

▼洞海湾の変遷まとめ

以上です。お付き合い、ありがとうございました。


追伸
こんな動画もあります。