平戸にポルトガル船が入港したのは、1550年。イエズス会宣教師、聖フランシスコ・ザビエルは、ここから布教活動を展開した。この地の大名・大村純忠は、長崎の港を開港。1571年にポルトガル船が初めて入港し、日本の歴史の大舞台として回り始めた。日本の「窓」であったゆえに背負わざるを得なかった長崎の宿命とは。
 キリスト教に対して好意的であった豊臣秀吉は、1587年「伴天連追放令」を出した。布教によってヨーロッパが日本を侵略すると考えた秀吉は、1597年、フランシスコ会の宣教師・イエズス会修道士ら26人を長崎の西坂で処刑した。徳川時代1605年キリシタン大名の大村純忠の子・喜前はキリスト教を放棄し、宣教師を領内から追放。徳川幕府が禁教令を発令し、宣教師やキリシタンは長崎港から国外追放を受け、教会堂は破壊された。1637年から1638年の悲劇が「島原の乱」。島原・天草の領民3万7千人が、島原半島の原城に立てこもり、幕府軍によって領民は皆殺しになった。
 開港と同時に長崎にやってきたのがトーマス・ブレーク・グラバー。1859年にグラバー商会を設立し貿易に従事し。また、幕末の激動時代、坂本龍馬ら志士達を陰で支え伊藤博文らの支援など、明治維新の陰の立役者であった。「維新の風は長崎から吹いた」といわれる理由は、坂本龍馬のエピソードからだ。龍馬は、日本初の会社「亀山社中」を長崎に設立。トーマス・ブレーク・グラバーなどの商人から武器弾薬などの物資を仕入れ、日本各地へ運ぶ取引を行うことで、対立していた薩摩藩と長州藩を結びつけ、後に薩長同盟成立を果たした。大政奉還のきっかけを作った後藤象二郎と龍馬の清風亭会談、長崎を出港した船中で龍馬が書いた船中八策、丸山遊郭で行われた数々の商談や密談など、幕末から明治維新への流れは長崎から始まった。
 今日また、長崎は歴史転換期として日本の「窓」の役割となるのではないか。長崎市長は、イスラエルの大使を原爆記念行事から外すと決定した。「政治的な理由でイスラエル大使を招待していないのではなく、式典を平穏で厳粛な雰囲気の中でスムーズに行いたいのです」と長崎市長鈴木史朗氏は語った。平穏で厳粛な雰囲気を目的とする意味は、右翼、左翼のイデオロギー関係なく”事件が長崎で発生”すれば、歴史の再現となると考えたのではないか。様々批判はあるが、元国土交通官僚の長崎市長としては、冷静な判断と歴史的で世界観のある分析であると思える。
 その判断の根拠としては、過去の長崎市長の銃撃による。
・1990年1月18日、本島長崎市長が長崎市役所で公用車に乗り込もうとした本島等市長が右翼団体の男に銃撃され、1か月の重傷を負った。本島市長は市議会で「天皇にも戦争責任はある」と発言し、これに対し右翼団体などが抗議活動を行っていた。
・2007年4月17日、当時長崎市長の伊藤一長がJR九州長崎駅近くで暴力団幹部の男に銃撃され、死亡した。現職市長で事実上の信任投票といわれた候補者がテロで抹殺された。市長だけの問題でなく、ぶちこわされたのは選挙であり、民主主義であり、主権者としての市民の権利である。伊藤市長は、反核平和を世界に訴えてきた。核の先制攻撃を叫ぶアメリカを批判したり、国にも逆らって、独自の見解をはっきり述べた。長崎市民の間では、この事件が「単なる個人的な動機」ではなく、そうした伊藤市長のやり方を好まない背後勢力の意向が働いたとみられており、「テロ時代の到来か」「うかつにものもいえない時代になった」と深い怒りが語られている。