これは、日本に黒人奴隷制度があったかのような誤解を招くものであり、日本人は、ゲーム・アニメにふけり、歴史・文化には詳しくないとバカにされているのではないか。日本人が奴隷として扱われた歴史については、以下のように理解している。
 天正14年(1586年)に秀吉は薩摩にて戦後処理後、博多に立ち寄り、「伴天連追放令」が発令された。秀吉は、九州遠征に同行していたポルトガル人でイエズス会の日本布教の最高責任者ガスパール・コエリョを引見すると、「なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか」と詰問を行った。秀吉がこの伴天連追放令を出した理由として、日本人の奴隷問題が重要であった。日本人の貧しい少年少女が大勢、タダ同然で西欧人に奴隷として売られていることを秀吉はこの九州遠征で初めて知った。これは、1452年にローマ教皇がポルトガル人に対し異教徒を奴隷にしてもよい、という許可を与えたことが根底にある。
 こうした日本人奴隷の交易にキリシタン大名たちが直接的にしろ間接的にしろ関わっていたことは間違いないだろう。海外に連行されていった日本人奴隷は、ポルトガル商人が主導したケースがほとんどで、その被害者はざっと5万人にのぼるという。
 こうした実情を憂慮した秀吉はコエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じた。そして、「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す」ことを伝えている。日本国内に向けてもただちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発している。秀吉の強硬な態度がポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易は終息に向かった。
 その後の西洋の歴史では、奴隷貿易はイギリスの繁栄を支えていたが、18世紀末から人道上の反対運動が起こった。ウィルバーフォースらの議会での運動によって、1807年、本国とアフリカ・西インド諸島間で行われていた奴隷貿易は禁止された。しかし、この時点では黒人奴隷制度そのものは否定されていなかった。
 秀吉の追放令の理由の一つに、西欧人が胸に秘めた日本侵略の意図を読み取ったからだと言われている。その意図とは、最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画である。
 宣教師コエリョが秀吉を博多で出迎えた際、最新鋭軍艦に秀吉を乗船させて、自分なら世界に冠たるスペイン艦隊を動かせると自慢半分、恫喝半分に語ったという。このとき秀吉は彼らの植民地化計画を瞬時に看破した。
 このような歴史は、日本人には誇るものであり、いかに時の為政者には人道主義と慧眼が必要かということを学ぶことができる。