『日本書紀』は物部守屋は、大連の位で蘇我馬子は大臣の位であった

敏達天皇の時代に、仏教の受容に積極的態度をとる蘇我馬子と対立し、中臣勝海とともに排仏を主張して、寺院や仏像を焼き捨てたとある。

蘇我・物部両氏の対立は、仏教受容の可否をめぐる争いや政治的対立を中心に語られることが多いが、仏教受容の側面をみると、仏教の教化的意図を中心とし考えかたもあるが、あくまでも百済からの文化として導入したと考えています。

では、排仏派の物部守屋対崇仏派の蘇我馬子の戦いの真相とはなんであったのか考察してみたい。

物部神道は、『先代旧事本紀大成経』の思想を基とする神道であるため、教祖・教典を必要としない、森羅万象あらゆるものに神が宿るという思想に基づいている。 神話、自然そのものや自然現象など、アニミズム的な民族宗教である。

神道のもつ、穢れ、汚れ(けがれ)の考え方とは、忌まわしく思われる不浄な状態であり、共同体に異常をもたらすと信じられ避けられる性格ものであることから、

仏教を問わず、個別の信条が存在すれば、争いが発生すると想像し、教祖・教典の必要を排除することにより、自然崇拝が政治上においても安定すると考えたのではないだろうか。

物部守屋対蘇我馬子の戦いは、政治上の宗教の利用の考え方の違いであり、長期的な視野と宗教のもつ影響力の考え方の違いであるように考えられる。

私の考えであるが、神道の目的とは、自然・宇宙との一体感を感じ取り、自分自身が神となることをシンプルに目指したものであり、真の平和実現の方法・手段であるとおもう。世界の宗教も目的は、同じはずなのであるが、個々の対立が目的化しまっている。