直球オヤジの自由奔走生活

直球オヤジの自由奔走生活

座右の銘は「"行きたい"、"やりたい"、"欲しい"と思った時が"その時"」。55歳で早期退職し、高齢者と呼ばれるまでの今が"その時"。趣味のバイクや自転車は年齢的に待ったなし。エコノミーな生活で趣味を楽しむ。これをどう追い求めるかが、このブログのメインテーマです。

新たに購入したバイクADV160、慣らし運転を兼ねた最初のツーリングに出掛けた。多くの意味を含んでいる今回のツーリング。最も重要なのは、私自身の”慣らし”かもしれない。

6月末に北海道で鹿と接触し大転倒。その時に骨折した左手がまだ完全に癒えておらず、従来のバイク
CRF250RALLYにはまだ乗られない。今回は治療中に購入したADV160で行く。今回のツーリングは私自身の体や精神的な部分を把握する意味もあるし、ADV160といういわゆるスクータータイプの小排気量(160cc)バイクが、私好みのツーリングでも使える代物なのかを把握するために計画した。新しいバイクや車を購入すると、最初の1000kmは慣らし運転を推奨されるが、バイクの慣らしというよりも、自分自身が新たなバイクに慣れる意味の方がずっと大きい。今回はケガからの復帰ということもあるし、今まで親しんできたバイクとは勝手が違うことから、一層”人間の慣らし”が必要になる。

今回は箱根や富士山周辺を一日掛けて約300kmほど走ってみる。もう何度も何度も走ったエリアだが、新しいバイクではどんな走りができるか。多くのライダーが走るメジャーな道には用は無く、マイナー路線をひた走る。箱根の外輪山の静岡県側の中腹を三島から御殿場に掛けて「
箱根やまなみ林道」という長い長い舗装林道が通っている。まずはここを走ってみよう。道巾は約1.5車線で終始クネクネ道が続く。こんな道はCRF250RALLYが得意とする道だが、一応舗装された道なのでADV160でも快走できる。

そんな道を走っていたら、
出たぁ!憎っくき動物、鹿だ。私の20~30m程前方、突然山側から飛び出てきた。ピョンピョンと三段跳びで道を横断していった。速いしその軽やかなジャンプ力をまざまざと見せられた。私が北海道で接触したケースもこんな動きをする輩だったはず。但し、事故時の鹿は私のすぐ目の前に飛び出してきた。だから、避けるも何も接触する瞬間までその鹿を目にしていない。今回は20m以上前方でのことだから全く慌てることなく余裕だったが、「鹿って、ああやって瞬間的に軽やかに飛び出して来るんだなぁ」と過去に何度も遭遇し、もう十分知っている鹿の動きを改めて認識するシーンだった。また同時に、ここに来るまで1時間近く山の中を走って来て、それまで全く鹿を目撃していないのに、初めて出没した鹿が当時の事故を思い出させる挙動だったことには偶然とは言え驚いた。やはり林道のように交通量が極少で自然の中を走る道においては、野生動物の出現を常に想定しておかなければならないと改めて肝に銘じた。

その後、箱根の仙石原から神奈川県の山北方面に抜ける「
はこね金太郎ライン」に向かう。この道はかつては未舗装の林道だったが、今ではきれいな舗装路となり、松田・山北方面から芦ノ湖方面への新たなアクセス路となった。とは言え、元々林道だから勾配もカーブきついし、道巾は一応片側1車線あるものの広くはない。そこをガンガン下って行く。ADV160はATなのでシフトダウンでエンジンブレーキを利かすことができず、両手のブレーキとアクセルワークだけでコントロールしなくてはならない。しかし慣れてくるとかなり速いペースで走れる。ブレーキはよく効くし、コントロールし易い。パワーはあまりないが、下りだからハンディにならない。ブレーキだけで下りの急坂急カーブの道を駆け抜けるのはもっと難しいかと思ったが、決してそうではないことがわかった。

はこね金太郎ラインから足柄峠へと向かう。10%以上の急勾配が続く道を登って行く。こういう道では出力が低いバイクは不利だが、意識的にアクセルを開けていけばそんなでもない。こうして静岡県の小山町に抜け、富士山と山中湖を望む絶景路の静岡県道147号、山梨県道730号で山中湖を経て、最後は山梨県側の富士山山ろくの「ふじてんスノーリゾート」というスキー場を目指す。

スキー場の駐車場手前から細い道に折れるとそれは
鳴沢林道。一車線幅の舗装林道を突き進むと視界が開けた場所に十字路がある。ここは鳴沢林道と軽水林道が交わっている交差点だ。この先、鳴沢林道は静岡県境近くに向かって道は伸びているが、ここから先はゲートで通行止め。交わっている軽水林道を下れば青木ヶ原の樹海の中を抜け本栖湖方面に至るはずだが、これもゲートで通行止め。反対に軽水林道を富士山頂方面に向かって延びている道もあるが、ゲートこそ無いものの自然保護の観点から一般車両は通行禁止。よって戻るしかない。それはわかっていてここに来た。

二つの林道交わるこの十字路に佇んでいると、
若かりし頃の非常識な行状を思い浮かべる。今から40年近く前、私が20歳代後半の頃、何度も富士山の林道を走りに来た。富士吉田から富士吉田登山道をバイクで登り、富士スバルラインの終点の5合目まで行った。当時の富士吉田登山道は一般車両は通行禁止ではなかったのでこんなことができたが、登山客の横を走り抜けた時にはさぞかしひんしゅくを買っていただろう。そして5合目に着いたらスバルラインを少し下り、途中から精進口登山道に侵入する。スバルラインと言う一大有料道路から柵やゲートも無く、その登山道に入り込むとそこは大きな岩と溶岩がゴロゴロしている道。そんな道をバイクで駆け下りた。富士吉田登山道は車やバイクでも走れる林道だったが、精進口登山道はそんな容易い道ではなく非常にハードだった。それでも下りだったこともあり、青木ヶ原の樹海を抜け国道139号まで無事に辿り着けた。当時はまだ自然保護が叫ばれていなかったのでこんな無茶なことができたが、今では考えられない。この十字路に至る途中、鳴沢林道と精進登山道が交わっていた地点も見たが、「よくもまあこんな道をバイクで走ったものだ」とあきれた。法律的には当時違法で無かったこともあるが、こんな荒れた道を五合目近くから駆け下りて来るなんて正気の沙汰ではない。若さ故のことであろうが、あな恐ろしや。もし今規制が無く、法的に問題無いとしても、絶対にこんな道を走るなんてムリ。若さ故の勇気は無謀と紙一重。そんな過去に浸るひと時をその十字路ですごし、さあ、そろそろ帰ろう。



左の道は軽水林道で富士山に向かって行く

右は鳴沢林道で、静岡県県境近くの別荘地の方に伸びている

奥の道は今来た鳴沢林道で、この道を戻れば「ふじてんスノーリゾート」というスキー場に出る

 

ADV160でもダートを除けばかなり走れることがわかった。でもここまで来て感じたのは、やはりCRF250RALLYの方がずっと面白いということ。クラッチレバーを握り、シフトをガチャンとローに入れる。その瞬間「さあ、行くぞ!」という気合が入る。スクーターはアクセルさえ開ければスルスルと静かに加速しすぐにスピードは上がるが、テンションは上がらない。急坂や急カーブをガチャガチャとシフトチェンジを頻繁に繰り返し、急減速急加速で抜けて行く。バイクを知らない人から見たら「危ないなぁ」と思うかもしれないが、これがバイクを操る面白さの一つであり、ある程度の技量があり、自分にマッチしたバイクであれば十分コントロールでき、他人が思うほど高リスクではない。こういうバイク本来の面白みはADV160には乏しい。お気楽にスムーズに操縦はできるが、バイクを操る魔力魅力という点では及ばない。骨折した左手が完全に治り、CRF250RALLYを以前のように元気よく走らせるようになるのはいつになるだろう。その時には、再度、私自身の慣らしが必要になりそうだ。


帰り掛けに走った朝霧高原で、この日初めて富士山が顔を出した

 

新しいバイクの能力をつかんだと同時に、以前のバイクの良さも再認識したツーリングとなった。体はまだ完調ではないが、十分乗れることもわかった。そして40年前の無謀な行いも蘇った。若くて元気で向こう見ずな私だったが、歳を重ねるに従っておとなしくなってしまった。「もうあんな真似はできないな」と思いながら、精一杯アクセルを開けて帰路に着いた。

9月初旬、北陸新幹線の延伸区間に乗るべく北陸に向かった際、能登半島の鉄道路線にも乗って来た。今年の元旦に起きた能登半島地震の被災地はどんなだろう。被災地の様子を通りすがりの人間が論じるのは難しいが、どうしてもそこに触れざるを得ないので書こう。

東日本大震災の被災地を走った時もそうだが、第三者が被災地のことを語るのは難しい。当事者でも無く、ボランティアでも無い、単に興味本位でそこに行き、調査したり地元の人から話を聞くというようなことも無いただの一般人が、
さもわかったようにペラペラと書くのは気が引ける。バイクや鉄道に乗りながら見えた光景を元にブログを書く乱暴さは、どうにも自分自身納得できない部分があるが、普通の人間が被災地を見てどう感じたか、何を思ったか、そんな駄文にも少しは意味があるかもしれないので、過去に何度か書いて来た。しかし、能登半島の地震の場合、更に難しかった。それはなぜか。なかなか頭の整理ができなかった。なので、旅から3週間程経ってもブログで書けずにいた。

能登半島を鉄道で旅をしても見える範囲は限られており、特に被害が酷かった能登半島北部の輪島や珠洲まで行けないので、今回はそれらの町には行っていないことを前提に書くことをご容赦願いたい。金沢駅から
JR七尾線で羽咋駅を経由し七尾駅まで行き、そこからのと鉄道に乗り換え終点の穴水まで行く。羽咋や七尾は大きな能登半島の根元に近い場所に位置し、穴水は被害の大きかった奥能登(能登半島北部)の玄関的な町で、半島のほぼ中央付近に位置している。以前は穴水から先、輪島や珠洲まで鉄道が伸びていたが、遠の昔に廃線となってしまった。そんな穴水を目指して金沢駅で七尾行きの列車に乗り換えた。

 

のと鉄道は一部の駅では損傷は見られたが、早期に復活できたことは喜ばしい

 

あれだけの大地震なのだから、さぞかし酷い状況に陥っていると予想した。しかし、金沢駅から普通列車で約一時間ほどの羽咋駅までの間、車窓から確認できた地震被害家屋は極々僅かで数軒に過ぎない。羽咋の被害は殆ど報道されていないので、被害は大きくなかったのだろうか。では羽咋から約30分乗車した先の七尾駅まではどうか。徐々に被災家屋と思われる家が散見されるようになってきたが、一目見て倒壊している家は見られなかった。被害があったであろう家は、屋根にブルーシートが掛けられているかで判別したが、そのブルーシートにしても屋根全体を覆うのではなく、能登半島特有の黒光りする瓦屋根の頭頂部(2面ある斜面の屋根が合わさる部分)だけを覆っている。その部分が痛み、雨漏りなどが起きているのだろうか。それにしてもブルーシートが被せられた家はそんなに多くはない



一見すると以前の里山風景が広がっている

一部の家で屋根にブルーシートが掛けられていた(穴水付近)

 

そうこうしている内に七尾駅に到着。七尾市も大きな被害を受けたと聞いていたが、七尾駅前だけ眺めた限りにおいては、普段通りの駅に見えた。駅前にはドンキやニトリが入るビルもあるが、損傷はうかがえない。ここから先、穴水まではのと鉄道の車両に乗り換えて北上する。金沢からここ七尾までは今風の家屋が多かったが、ここから先は能登瓦をふいた古い家屋がぐっと増え、それに比例して屋根の頭頂部にブルーシートを掛けた家も増えてきた。しかし、それでもそんな家屋は一部に過ぎない。のどかな能登の海を眺めながら列車は北上し、終点穴水駅に到着。輪島や珠洲ほどではなかったが、この穴水も大きな被害を被ったと聞いている。駅前に立つと、七尾までとは違って倒壊した家が目に入って来る。しかしどの家もそうだということではなく、酷い損害を受けた家は一部だけ。そして意外だったのは、復旧復興工事で街中ドタバタしているかと思ったが、そのような光景は全く無く、周辺で工事をしている家は一軒だけだった(平日の昼間)。このような光景を見て、少々困惑した。いや、わかり易く書けば、「もっと酷いと思って来たのに・・・・」という予想が外れた感覚だった。自分自身が抱いたにも関わらず、この不届きな感覚がどうにも納得がいかず、その後もこの疑問について考え続けた。

 

七尾駅前だけ見ると地震が起きたことを感じさせなかった

穴水駅のバス停の屋根が傾いているが、ほぼ駅の機能は回復していた

 

帰路は再び今来た経路で金沢まで戻る。その列車に乗りながら、今までこの間ずっと感じていた前述の思いの原因を考えた。それは、これまで報道された映像と、自分が車窓と駅前周辺をウロウロして目に入って来た光景とのギャップが大きかったからだった。だからと言って「意外に被害は小さかったのでは」という疑問を抱いたのではない。家屋の外観上の損傷だけでは家の中の酷さ加減は全くわからないし、家の床が1度、2度程度傾いただけでも、気持ち悪くてなって落ち着いて寝られないというが、その程度の被害なんか私のような人間にわかるはずがない。それに輪島や珠洲は鉄道が通っている能登半島南部よりずっと被害が大きく、この日私が目撃した被災状況より遥かに酷いに違いない。そんなことは頭の中では理解していながら困惑する私の心境はいったいどこから来ているのだろう。そこが問題だった。

 


穴水駅周辺には大きな損害を受けた建物が散見された

 

一階が完全に倒壊し、車が押しつぶされてしまっている

 

行きついた結論は、日常的に”衝撃映像”に見慣れてしまい、ちょっとのことでは驚かなくなってしまったと言うこと。それはバラエティ番組やネットの投稿映像もそうだし、2011年の東日本大震災で繰り返し流された津波が町を襲う映像もそうだった。そういう衝撃的な映像ばかりがメディアで報道され、能登半島地震でも横倒しになった大きなビルの姿が象徴的に度々放送されると、画面の中の衝撃的な映像と自分の目の前にしている現実の世界とを比較してしまい、「大したことないな」と勘違いしてしまう。そんな感覚で見ている自分が恐ろしい。地震にしても水害にしても、建物はそこに建っていても、家の中の惨状は想像を絶するものがあろうことは、過去に被害に遭っていない私でも、少し想像力を働かせばある程度できる。しかし、そんな想像もせず、津波や倒壊というような直接的でわかり易い衝撃映像にばかり目が向いてしまう

地震や大雨が起きることは防ぎようがない。でもその先にどんなことが起きるかは
予想も想像もできる。自分の住む町が孤立する恐れがあるかも道路事情を考えればある程度予想できること。日本全国に辺鄙で険しい半島は多いし、険しい山奥の集落もある。能登固有の事情を強調する記事も多いが、私は決して能登だけの話ではないと思っている。それに備える上においては、お上に頼らねばならない部分もあるが、個人的に対応準備できる部分も多くある。もし今、自分の家が大地震や洪水に襲われたらどうなるか。何が困るか、そのためには事前にどう備えておけばいいのかなどを調べたりしながら、自分の置かれている状況に照らし合わせて想像力を働かす。そうすれば「何をしていいのかわからない」ということはないはず。問題は、考えられる備えを実行するか否かだ。

能登半島の被災地の極一部を車窓から眺めたり、駅前を行き交う人々の様子を見て、
わかったような気になってはいけないと自分を戒める。家はしゃんと建っていても、画面には出てこない家の中は地獄絵図かもしれないし、人間関係が崩れたり、仕事を失ったりしている人もいるだろう。画になる衝撃映像ばかり見て一瞬驚きながらも、「ハイ、次!」と次から次と新たなコンテンツを求める現代社会。他人事だから、一時的にびっくりしたり悲しんだりしても、それで終わりと済ませられる。でも、もし自分の身に起きたらどうなるか。見えていない部分を想像してみよう。そんなことを考えた短い能登の鉄道の旅だった。

その日の早朝、突然痛みが襲って来た。私の体に異変が起きた。話には聞いていたが、それはあの尿管結石という奴だった。そんな恐怖の一日のことを書こう。

ホント、今年は
人生で初めて経験することばかりの一年だ。ジンマシンが起きたり、バイクで鹿と接触して転倒事故を起こし、初めて入院し、始めて手術というものも経験した。それが済んだら、コロナウィルスに感染した。そして今度は、初めて尿管結石を発症し、初めて救急車で運ばれた。もう踏んだり蹴ったり泣きっ面に蜂の一年だ。その尿管結石のことを書く。

先日の深夜、目が覚めた。
腰の辺りが少し痛い。「腰痛かな?」と思ったが、姿勢をどう変えてもその痛みが変わらない。腰痛ならば痛くない姿勢というものがどこかにあるはず。しかし、この時点での痛みは軽微だったこともあり、そのまま再び寝入ってしまった。早朝、また目が覚めた。今度は腰の辺りが痛いだけでなく、左側の下腹部が少し痛い。ここまでくると「何かおかしいな」と感じ、ベッドサイドに起き上がり、体を捻ったり立ち上がったりするも変わらず。そして、尋常ならざる大汗をかいている。「何でこんなに汗が出るんだろう」と違和感と疑念が増大する。尿意を催しトイレに立った。普通にオシッコは出たが、相変わらず痛い。いや、下腹部の痛さが急速に増してきた。

そのままカミさんの寝室に行き、「お腹が痛いんだけど・・・」と症状を訴えると、カミさんは飛び起きてくれた。私は自分の寝室に戻りベッドに横たわると、もう
起きる気力が無くなるほど下腹部の痛みが増してきた。先ほどトイレに行く前の時点では、「朝になったら、病院に行って診てもらおう」などと考えていたが、ここに至っては自から病院に足を運べるような状況ではない。それでも「腹痛程度のことで救急車を呼んでいいのか」と逡巡したが、もはや青息吐息状態に近く、これは明らかに異常。カミさんに「救急車を呼んで」と頼んだ。

救急は10分もしない内にやって来た。何たる速さ、素晴らしい!救急隊員3名が狭い寝室に入って来て、青息吐息状態の私に氏名や今日の日にちなど聞いて来る。そんなことどうでもいいだろうと思うが、救急搬送する上で必須のルーチンなのだろう。そうやって、やっと救急車内に運ばれると、現在通院している病院やその病名、昨夜の夕食のことなど聞かれる。同時に受け入れてくれる病院を探しているようだった。私の体には心電図や血圧、心拍数などを取るプローブなどが付けられ、心電図が乱れているのだろうか、「今まで心臓疾患について何かありましたか」などと怖いことを聞いて来る。そんなことより、早く病院に連れて行って欲しい。ようやく、受け入れ病院が決まったとのことで、救急車は出発した。これが図らずも
救急搬送初体験となった。

痛くて痛くて正確ではないが、10分少々で市内の中核病院に到着。多くの人々がテキパキ動き、迅速かつ確実に救急車から
緊急救命室へと搬送された。ここでも氏名や生年月日、今日の日にちなど問われながら、腹部のあちらこちらを押さえられたり、軽く叩いたりしながら、「ここ、痛みますかぁ?」などと触診される。どこかが局所的に痛いというよりは、左の下腹部の辺りを強く押さえ、締め付けられるように痛いと訴えると、おもむろに横たわる私のパンツをずらし、痛み止めの座薬を挿入してくれた。座薬も初めての経験で、あんなに簡単にスルッと入るもんなんだと知った。問診が終わるとすぐにCT室に運ばれ腹部のCT画像を撮り、次に局部的にレントゲンを撮る。最後は採尿を求められた。相変わらず激痛はするし、早朝にオシッコをしてしまったので出るかどうかわからなかったが、何とか採尿できた。そうして再び、緊急救命室に戻され安静状態にされたが、相変わらず痛い、痛い。体の向きをどう変えてもダメ。う~ん、う~んと唸るしかない

暫くすると、看護師さんがやってきた。「
尿管に複数の石がありました。尿検査結果、尿には問題ありませんでした。痛みはもうじき座薬が利いてくるころですから、そうすれば少しは収まると思います」。ここで初めて「尿管結石」であることを知った。そうかぁ、それだったのか。私の友人だけでなく、私の息子も経験したことがある尿管結石。息子の体験を聞くと「気絶するかと思うほど痛かった」と言っていたが、所詮は他人事として聞いていた、アレだ。そんなことを考えていたら、ある時点で、突然スゥーーーという感じで痛みが引いた。座薬が利いてきたのか、石が排出されたのかわからないが、まるで魔法に掛かったかのように痛みが無くなった。それは痛みが和らいだというレベルではなく、消えてしまった。いったい今までの痛みはなんだったのかと、狐に摘ままれたかのように消えた。

看護師さんは「もう
お帰りになっていいですよ」と言う。つい数分前まで青息吐息だったんだから、少しくらいの間、様子を見るようなことをしないのだろうかとも思ったが、手のひらを返したように健常者状態に戻ってしまったのだから、長居は無用、「さっさとお引き取りを」ということか。看護師さんらにお礼を言い、外で待っていたカミさんと合流した。その後、会計と当面の薬(痛み止めの座薬と排尿促進の薬)を貰う。体は路線バスでも帰れるほど普通の状態だが、私は救急搬送された時のパジャマ姿のままだったのでそうも行かず、タクシーで自宅に戻った。

痛みが全く無くなったのは、結石が解消されたのか、痛み止めが利いたのかわからないので、その後も水や飲料を大量に飲み続けた。看護師さんや結石経験者の友人によると、とにかく水を大量に飲んでオシッコと伴に石を排出させてしまうのだと言う。中にはジャンプや縄跳びをして管に詰まった石を下へ下へと落とすことも推奨されている言うが、水の摂取にしてもジャンプにしても、
今の世の中においてもそんな原始的な方法しかないのか、大いに疑問だった。

その後も何事も無く、翌日になった。この日は昨日救急搬送された病院に行き、経過観察と診断を受ける。腹部を超音波(エコー)検査され、その結果を元に診察された。それによると
まだ尿管に一つ石があると言う。昨日運び込まれた時には複数あった石が、今では一つに減ったそうだが、その石が膀胱へ至る間に詰まれば、再び昨日ような事態になる恐れがあるという。その石は尿管の入口付近にあり、この先膀胱までの間の尿管に2箇所狭い所があるという。医師によると、石を溶かす薬もあるが、現在治療中の前立腺肥大の処方薬にもその効果が含まれているので、それを普段服用しているのなら石を溶かす薬は飲む必要は無いということで却下となった。私は「尿管にある石が詰まって、昨日のような痛みが出たならどうしたらいいですか」と聞く。すると、病院に駆け込んでもいいが昨日と同じような処置しかできない(つまり、特になんかできる訳ではないということ)ので、今回座薬を多めに処方するので、痛みを感じたらすぐに座薬を挿入し、安静にしていることですな、と言われた。因みに、経口の痛み止めはこのようなケースにおいて殆ど効き目は無いとのこと。

こうなると、今尿管内に残っている石が、無事に膀胱へ抜けることを願うしかないようだが、これだけ現代医学が進歩しているのに、あの激痛に対する
特効薬は無く座薬で痛みを抑えるだけとは驚きだ。酷い場合は手術や超音波で外部から破砕するようなこともあるらしい(不確か)が、基本はひたすら水分を大量に摂取し、オシッコをどんどん出して、石を詰まらせずに膀胱まで排出することが一般的な処置のよう。(膀胱に石が至り、その後膀胱から先の尿道に詰まる「尿道結石」も起こりえるが、確率的には腎臓~膀胱の尿管結石の方が多いらしい)

こうして私における尿管結石禍はひとまず終了したが、
不発爆弾を抱えているかのようでちょっと怖い。でも、まあ無事に生還したことを祝って、とりあえずビールで乾杯だ。さあ、どんどん尿意を催させて、石を排出してしまおう!

9月初旬、北陸新幹線の延伸区間に乗るべく敦賀に向かった。敦賀から富山まで北陸三県を巡ると、新幹線を取り巻く様々な光景が見えて来た。それは決してバラ色の世界だけではない。

全国鉄道完乗の為、この3月に延伸した大阪の北大阪急行電鉄に乗り、翌日は残された未乗路線である北陸新幹線の敦賀~金沢に乗るべく、JR北陸本線で敦賀駅へと向かった。ここでは「北陸本線」と書いたが、もはや”本線”とはとても呼べない寂しい路線になってしまった。以前は北陸地方の大動脈、大幹線だった北陸本線。ところが、今では米原~敦賀の僅か約46km。それ以外のかつての北陸本線は全て第三セクター化してしまった。そして今やJRの路線として残っているのは、脚光を浴びる花形の新幹線と超マイナーな赤字ローカル路線だけという歪な形になってしまった。

そんな北陸本線に乗り、JR
敦賀駅に着くとそこには巨大なターミナルが建っていた。敦賀にはツーリングで過去何度も訪れているが、はっきり言って、この町は行く度に寂れる一方だと感じていた。若狭湾の原発銀座の中心地であるこの町は、原発ワッショイ時代には大いに賑わったことだろうが、駅周辺においてそんな賑わいは全く感じられない。それが今、北陸新幹線が来たことによって、少なくても町はともかく駅は復活した。新幹線の駅舎は巨大だった。豪雪地帯ということもあって、巨大なシェルターでホーム全体を覆っている。過去何度もこの駅で乗り換えたことがある身からしたら、それは驚きの光景だった。


敦賀駅の新幹線ホームは巨大な格納庫のよう

 

現時点においては敦賀駅が北陸新幹線の終点だが、将来大阪・京都方面に延伸したならば、この駅は途中駅になってしまう。そうなった時、この巨大駅はどんな状況に陥ってしまうのだろう。それを予感させる光景を見た。その日、関西方面から在来線で敦賀に向かう普通列車に乗った。乗車率は約50%程度と予想以上に乗っている。これらの人々は敦賀で新幹線に乗り換え、何処に向かうのだろうと想像していた。そして終点の敦賀駅に到着。全員降りるとホーム上を多くの人がゾロゾロと歩いていく。私はそこから新幹線のターミナルの改札口に向かった。そこまで来てフトあたりを見回すと、殆ど人がいない。さっきまでホームを歩いていたあの人々は、どこへ行ってしまったのか。そんな気持ちを抱きながらも、2両しかない自由席車両を目指す。エスカレーターでホームに上がると、これまたほぼ無人。もしかしてホームを間違ってしまったのかと、電光掲示板を改めて確認するが間違ってはいなかった。無人のホームを歩き、自由席の2号車に入る。するとこれまた無人。誰も座っていない。私一人。超閑散ローカル路線じゃああるまいし。それでも列車が出発する時刻になると、その車両には10人ほど乗車していた。



私の住む静岡の駅とは比べものにならないほど広い敦賀駅の新幹線窓口周辺は閑散としていた

改札を抜けホームに向かうも、人が見当たらない

出発10分前、ホームに人影が無い

「ホームを間違ったか!?」と、心配になったほど

 

そうこうしている内に新幹線「つるぎ」は出発進行。金沢まで43分。途中停車するのは福井駅のみ。走り始めた瞬間、今まで乗って来た在来線とは全く違う世界が広がる。速いし、静かだし、揺れない。もう快適そのもの。素晴らしい!しかし、正直私は新幹線は好きではない。大量高速移動手段として点と点を結ぶためだけなら最高だが、線を大事にする私のような乗り鉄には、遮音壁に囲まれ車窓が楽しめない新幹線は速過ぎることも含めて、鉄道の旅特有の旅情が無さ過ぎる。特に開通年度が新しい新幹線程つまらない。

そんな不満を抱きながらも、あっという間に
福井駅に到着。福井駅では途中下車しなかったが、窓からホームを伺うと福井駅の新幹線ホームは一面二線で、実にシンプル且つ狭い。敦賀駅の巨大さと閑散さを見た後にこの福井駅を見ると、この程度の規模の駅で十分じゃないかと思えるほど好ましく感じた。

そうして再び列車は出発。これまたあっと言う間に
金沢駅に到着した。予想していたとはいえ、金沢駅に降り立つと、新幹線ホームも駅のコンコースも人・人・人だった(平日の昼前)。立錐の余地も無いとまでは言わないが、巨大な金沢駅を様々な国に方々が行き交っている。ビジネスマンのような方は少なく、その多くが観光客のよう。ここまで敦賀⇒福井⇒金沢と移動してきたが、その差は歴然で、観光の賑わいからしたらもう圧倒的に金沢の勝ち。私は金沢から能登半島に伸びる路線に乗り換えるので、在来線改札口に向かった。改札口を抜けると、そこは別世界のように静かだった。そして車内に入ると決して乗客がいない訳でないが、大荷物を引きづって歩く膨大な観光客が行き交う新幹線乗り場とは全く異なる、よくある地方の近郊路線の姿そのものだった。

その後、私は能登半島の鉄道に乗り(能登半島地震のことは、また別途書きます)、再び金沢駅まで戻って来て新幹線で富山県の高岡を目指した。高岡と言う町は富山県第二の町で、古くは加賀藩前田家ゆかりの地として栄えた伝統的な古い町なのだが、古い歴史に裏打ちされたかのように富山市とは一線を画した文化を持つ町。恐らく、それがほぼ隣町に位置する県庁所在地の富山市への対抗意識にも繋がっているのだろう。そんな高岡市の新幹線駅(新高岡駅)は、市の中心にある高岡駅から在来線(JR城端線)で一駅離れた場所に位置している。

その日の宿を取っている高岡駅に降り立った。新幹線から乗り換え僅か一駅だが、これがネックなのか新幹線の通らない高岡駅はちょっと寂しかった。、しかし、橋上駅の窓から周囲を見渡すと、周辺に
巨大なホテルが林立している。私が住む政令都市の静岡市にあるホテルよりずっと大きく多く、全国展開のビジホチェーンがいくつもある。スマホで高岡市の人口を調べてみた。驚いた。僅か14万人。この駅の大きさ、周辺のホテルの大きさとその多さから、とてもその程度の人口とは思えなかった。これからすると多くの人が訪れる町であることが想像できる。しかし、現在の駅の賑わいから察すると、そんな町でありながら、新幹線の乗客の多くはこの町を素通りしてしまっているのではなかろうか。それは新高岡駅で高岡駅への乗り換え時の乗客が少なかったし、高岡駅の隣に建つ大手のビジホに泊まったが、4900円という格安な料金からもそれが伺えた。


高岡駅前を見ると人口14万人の町とは思えないほど立派

「万葉線」という路面電車が走っているのも評価できる(乗客は少なめだったが)

 

翌日(土曜日)、高岡駅から富山駅に向かう。その在来線の車内はかなりの乗車率だった。富山はコンパクトシティ化を積極的に推し進め、充実した路面電車網を整備し、その甲斐があってか、金沢とは比べものにならないものの富山駅周辺は賑わっていた。

 


富山駅構内の電停から出てくる路面電車

富山駅のコンコースの横(右側)を進むと、すぐに路面電車乗り場(左側)がある

日本で一番アクセスの良い路面電車乗り場

正面が富山駅

駅の北側には広々とした街並みや公園が広がる

それにしても歩道が異常に広い

 

北陸新幹線を通して北陸三県を見渡すと、町毎の悲喜こもごもが見えてくる。やはり金沢は断トツに強い。富山市も健闘しているが、その陰で20km程しか離れていない高岡市は割を食っているように見えた。福井は福井駅に降りていないのでなんと言えないが、あんな巨大駅がある敦賀市の今後は期待していいのか、言い換えれば大丈夫かと思わされた。以前JRだった在来線の幹線の多くが三セク化し、新幹線が来たことで超マイナー路線の越美北線(九頭竜線)と七尾線、氷見線、城端線、高山本線だけがJRとして残るという歪な鉄道形態になってしまった北陸地方。しかし、金沢駅の活況呈する光景を見ると、多くの町が新幹線にラブコールを送る気持ちは理解できる。しかし、その陰にはその恩恵にあやかれないどころか、マイナスになってしまう町も出てくる一面も忘れてはいけない

新しいバイク、そして生涯で最後となるかもしれないバイクがやって来た。さあ、リハビリも兼ねて乗ってみよう。そして、果たしてこのバイクで旅に行けるだろうか。

6月末に北海道で鹿と事故った
CRF250RALLY(ホンダ)と、その後購入を決めたADV160(ホンダ)が揃って我が家に納車された。このCRFを購入し3年。その間約26000km近く走ったが、このバイクなら全国どこにでも行けると、その万能性を高く評価していた。その評価は事故後も変わっていないし、まだ乗り続けるつもりだった。そんな気でいたのに、数年前から「上がりのバイク」として、その時が来たら購入するつもりでいたそのADVが突如生産終了となってしまい、私の目算は修正を余儀なくされてしまった。まだ身体的に「上がりのバイク」を購入する状況に陥っていないのに、急遽購入を決断するに至った顛末は以前のブログで書いた。そんなADVと事故から復活したCRFが伴に我が家にやって来た。


スクータータイプとしては唯一無比な個性的なデザイン

 

新車を前にして、あまりに酷い残暑にトホホとなったが、少しばかり陽が陰った瞬間を逃さず、初走りに出掛けた。新しいバイクの走りはどうか。いや、バイクのインプレッションより前に、このライディングが事故後初となるバイクの運転なのだから、そっちの方は大丈夫なのか。身体的には複数個所骨折した左手は骨こそ正常に繋がったものの、運動機能はまだまだ回復途上。指は完全に握り込めず、握力も15kg程度と以前の半分ほどしかない。だから、左手でクラッチレバーを操作するマニュアルミッション(MT)のCRFにはまだ乗れない。しかし、ADVはオートマチックミッション(AT)なので、左手は後輪ブレーキレバーなのでクラッチレバーほど握力を要しない。そうは思いながらも、果たしてライディングに支障は無いのか、そして精神的にも事故がトラウマとなり、運転に影響を及ぼさないかを懸念していた。

 

左のレバーはクラッチではなく後輪ブレーキだから、少々握力が出なくても困らない

 

ゆっくりと穏やかにスロットルグリップを回す。静かにスピードが上昇する。思わず左手のレバーを握ってシフトアップしようとし、「おっと、これはATだった」と気づき、すぐにレバーから手を放す。更にスロットルグリップを回して加速させる。ブレーキ操作はどうか。左手は機能が回復途上だがブレーキ操作に何ら不自由は無かった。バイクを操る上でのバランス感覚やスピード感も以前と変わりは無い。少しは恐怖心が沸き起こるかと思ったが、全くそういうものは無かった。これなら精神的にはツーリングを復活できそうだ。まずは、最初の関門をクリアした。

次はこの新しいバイクの評価だ。CRF250RALLYは文字通り排気量250cc。ADVはその6割程度の160cc。そんな
小排気量車の走りはどうか。市街地でちょっとアクセルを開けるとすぐに60~70km/h程度になり、キビキビと小気味よく走る。郊外の閑散路に行ってみた。車も少ないワインディングロードでは70~80km/h程度で気持ち良く走れる。高速道路並みのスピードを出す車が多いバイパスでは、気負わずに90~100km/hで追い越し可能。今回は試していないが、最高速は115km/h程度のようで、この感じなら高速道路では100km/hまでなら巡行可能だろう。足回りはどうか。このバイクは自動車で言えばSUVに相当するアドベンチャータイプのスクーター版と言われているが、果たして荒れた路面ではどんな挙動を示すか。舗装が傷んだ荒れた道を走ると、やはりかなりガツンと来る。限界は高くないようだ。しかし、とにかく楽チンなことこの上ない。アクセルとブレーキだけ操作すればいいのだから。とは言え、楽だからイイとは言えないのが趣味の世界。

 

 

ほんの70kmほど走っただけだが、CRFとの差は歴然だった。何よりも大きな違いは、MTのCRFは道路の曲がり具合や傾斜から最適なギアを任意に選んで走れるし、急加速も急減速も自由自在でガンガン突っ込んでいけるが、ADVはATにお任せ。制動はブレーキのみ。排気量で優る(とは言え、たかだか250cc)CRFは高速道路を110~120km/hで巡行できるし、足回りもしなやか。CRFは基本的にオフロード車だから、荒れた路面など屁でも無く、躊躇なく行ける。こうしたCRFとADVを四輪車に例えるならば、CRFは排気量1.5Lのジムニー・シエラで、ADVは軽自動車のジムニー・・・ではなく、恰好だけSUV風の軽自動車だな。


ここまでの結論は、ADVにCRFを求めてはいけないということ。ADVに乗る時には肩肘を張らずに気楽に跨り、まったりと走ればいい。ガチャガチャと左手のクラッチレバーと足元のチェンジペダルをせわしなく操作する必要は無く、ただただ、アクセルの捻り具合と両手のブレーキ操作に集中するだけ。目を三角にして「ガンガン行くぜぇ」などとアドレナリンを噴出せず、穏やかに乗ればいい。もう”いい歳”なんだからさ。このバイクなら、ゆっくり走っても不自然ではないが、それでも少し速く走りたい時には、そこそこ速く走れるからフラストレーションが溜まることも無さそうだ。ADVとCRFでは全く性質も性能も違うのだから、バイクに合わせたツーリングをしよう。

こうして、人生の最終盤近くになってバイク2台持ちとなった私。まずは
リハビリを兼ねてADVを乗りこなし、どういう道を得意とするのか、また不得意とするのか、そしてその限界を掴もう。その上でADVに合ったツーリングスタイルを模索し、60歳代までとは違ったバイクの楽しみや面白さが見いだせるか、そこがポイントだな。そして、晴れてCRFに乗れるレベルに左手が回復したら、ガンガン走る従来のツーリングスタイルを、鹿との接触事故を教訓としてどう修正していくかを考えよう。

 

バイクを楽しめる残された時間は永遠ではないどころか、10年20年もある訳でもない。精々数年だろう。歳をとれば、身体的にも気持ちの点でもアクティブさが低下するのは避けようがない。だからと言って萎む一方の人生なんてまっぴらだ。文明の機器を上手く使いこなし、この限られた時間を有意義に使い、最晩年にふさわしい新たなツーリングスタイルが見つけたいと思っている。